山聲-TOP
歳時記-TOP
歳時記-滋賀湖北
つわものどものゆめのあと 概要 滋賀湖北を、代表する史跡と言えば、賤ヶ岳があげられます。天正11年(1583)に羽柴秀吉と柴田勝家による権力闘争に起因することで繰り広げられた賤ヶ岳の合戦。戦国時代のスパースターのそれぞれの思いは、ここを訪れる人たちにロマンをかきたてます。柴田勝家が整備した北国街道、将来の為政者像を描いたことでしょう。それが敗戦の将として、失意のうちに再び歩くことなど、思いもしなかったことでしょう。各々のプライド、家名や権力の維持など、現在に生きる私たちには、その重圧は計り知れないものがあります。この時代にうまれた成句(故事やことわざ、慣用語の一種)に、『天王山』、『洞ヶ峠』、『三日天下』、『小田原評定』などがあります。私たちに与えた影響が大きいことがわかります。
春の余呉の里に立ち、その思いが感じ取れればいいのですが。
兵どもの夢の跡
地  域 25nn:木之本/北西E
Mapion 滋賀県余呉町
撮影日 2016.04.16、(晴)
リンク 行市山・文室山160416
余呉湖北山1508.28
賤ヶ岳大沢大音150624
柳ヶ瀬山080917
文室山
 ↓
行市山
 ↓
公法寺山
 ↓
兵どもの菩提を念ずる石仏、奥の集落には毛受兄弟の墓があります
中尾山
 ↓
大平良山
  ↓
賤ヶ岳山頂からの余呉湖俯瞰
最奥にガスでかくれていますが柴田勝家の本陣のあった中尾山(柳ヶ瀬山)
                          撮影日:2015.06.24
攻防の要所:賤ヶ岳、佐久間盛政の夢の跡
神秘な余呉湖、ここから秀吉方の陣備えが一望できます
山萌ゆる、中央は前田利家の陣する別所山砦、その奥に行市山
里の春、中央の大屋根は毛受兄弟の菩提寺である久澤山全長寺
5分でわかる 賤ヶ岳の戦い
年号(西暦) 旧暦(西暦) 事   件
天正10年(1592) 06.02(06.21) 織田信長、織田信忠(嫡男)が本能寺の変で殺害さる
06.13(07.02) 山崎の戦、このとき柴田勝家は上杉対策で合戦に間に合わず
06.27(07.16) 清州会議で後継者が秀吉の擁立する三法師(秀信)に決まる
会議の誓約により秀吉所領の長浜領を柴田に再分配
秀吉と柴田の不仲は決定的となる
この間 秀吉・柴田双方とも
周囲の勢力を自らの体制に加えようと調略・和平交渉・小競合
12.02(12.26) 雪で動けぬ柴田を牽制しつつ、秀吉による長浜城攻め
12.20(01.13) 秀吉、さらに岐阜城攻め、織田信孝(三男)降服
天正11年(1593) 2月中旬 柴田に加勢を決めた滝川一益が1月に挙兵
秀吉は滝川の本拠地である伊勢長島城攻撃
2月末 北之庄(福井)にいた柴田は雪のため動けず
2月末、残る雪をかき分け近江に出陣
03.12(05.03) 柴田は3万の軍勢を率いて柳ヶ瀬に到着し布陣を完了
03.19(05.10) 秀吉は5万の軍勢を率いて木之本に布陣(伊勢長島に1万残す)
この間 双方ただちに攻撃することはなく戦線は膠着
この間両陣営とも陣地や砦をさかんに構築する
柴田方は永陣の構えを築き、これをみた秀吉方もこれに備える
03.27(05.18) 秀吉は一部の軍勢を残し長浜に帰還、伊勢と近江に備える
04.16(06.06) 一度は降服していた織田信孝が再び挙兵、秀吉は岐阜へ進軍
04.17(06.07) 揖斐川の氾濫により秀吉は大垣城に入る
賤ヶ岳の戦い
ハイライトシーン
04.19(06.09) 柴田方、佐久間盛政はこれを好機ととらえ意見具申
柴田は躊躇したもののこれを採用、大岩山砦攻撃を開始
秀吉方中川清秀討死、黒田孝高(官兵衛)奮戦、高山右近退却
柴田勝家は、この戦闘勝利の成果に撤退の命令を出す
佐久間盛政は柴田の命令を無視し、居続ける
04.20(06.10) 秀吉方、賤ヶ岳を守っていた桑山重晴も撤退を開始
佐久間盛政率いる柴田方の賤ヶ岳占拠も時間の問題と思わる
同じころ、琵琶湖を坂本へ向かっていた丹羽長秀は進路変更
桑山と丹羽は途中で合流し賤ヶ岳にとって還し佐久間勢を撃破
秀吉方、賤ヶ岳の確保に成功する
秀吉の大返し
大垣城にいた秀吉は、大岩山砦の陥落を知り、直ちに軍を返す
14時に大垣出発、52kmをわずか5時間で移動
04.21(06.11) 木之本に帰った秀吉は
佐久間勢を急襲、柴田勝政に攻撃対象を変更、激戦になる
このとき、秀吉子飼いの武将たちが奮戦する「七本槍」の逸話

この最中、茂山にいた柴田方の前田利家が戦線離脱
さらに柴田方の不破勝光、金森長近戦線離脱

佐久間隊を撃破した秀吉方は、柴田本陣に殺到
柴田方は支えきれず総崩れ、柴田勝家は北ノ庄にむけ退却
このとき、毛受(めんじゅ)兄弟が柴田勝家旗印を持ち奮戦討死
  04.23(06.13) 柴田勝家は失意のうちに北ノ庄城に帰還
秀吉方の軍門に下った前田利家は秀吉方の先鋒となる
秀吉方、勝家の籠る北ノ庄城を包囲する
04.24(06.14) 柴田勝家は夫人のお市の方らと共に自害
北之庄城落城
04.25(06.15) 秀吉は中国地方の毛利に書簡を送り勝利を報告
中立状態あった毛利勢に服属を暗に促した
その後、秀吉は大阪城の築城を開始
(大阪城は1583-1585年にかけて完成、規模に比す最短工期)
この間 柴田方、その他の消息
佐久間盛政は逃亡するも黒田孝高の手勢に捕えられ、後斬首
織田信孝は秀吉に与した兄・織田信雄に包囲され降服、後切腹
伊勢の滝川一益はさらに1ヶ月籠城、開城、剃髪し出家、蟄居
5月 秀吉、朝廷から従四位参議に任命さる
これにより
各武将が戦勝慶賀し親交を求められ、畿内の権力を掌握する
 
  (参考:Wikipedia 抜粋編集)