山悠遊-滋賀中鈴鹿
歩ッ歩ッ歩:山もゆる、一歩一歩の山あるき
しょうほうざん-こんごうりんじ ルート 駐車場(12:10)〜金剛輪寺本堂(12:40/13:20
〜明寿院庭園(13:35/13:55)
〜駐車場(14:00)
松峯山-金剛輪寺 シュミレーション
地  域 25zc:百済寺/北西N 概要 金剛輪寺は、天台宗の寺院、山号は松峯山。別名:松尾寺。本尊は聖観世音菩薩(秘仏:住持一代につき一度限り)。天平13年(741)、僧・行基の開創とされます。秦荘町の「秦」は、渡来人の秦氏とも何らかの関係があったとされています。西明寺、百済寺(ひゃくさいじ)と共に湖東三山の1つに数えられ、紅葉が名所の真ん中のお寺として全国区で知られています。平安時代前期には、僧:円仁(慈覚大師)により中興。元亀の法難により本堂(国宝)・三重塔(重文)・二天文(重文)を除き焼失。近世以降は荒廃し、特に三重塔は初層と二層目をかろうじて残すのみでしたが、欠損箇所は近接する西明寺の三重塔などを参考にし、昭和53年(1978)修理復元されました。金剛輪寺の本坊は、明寿院と呼ばれ、桃山時代から江戸時代にかけて整備された池泉回遊式・観賞式の庭園(名勝)があります。書院等は、昭和52年(1977)に火災で焼失するも翌、昭和53年秋再建。
Mapion 滋賀県秦荘町松尾寺
標  高 280m/170m=110m
距  離 約2.0km、斜度:max―゜
体力度 ―P、☆
山行日 2015.07.20、(晴)
形  態 日帰り、2名
時  間 所要01:50/歩行00::50
アクセス 自家用車、00:30
備  考 特に問題なし

惣門、別名:黒門
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古刹のスクリーン:築地塀
季節により、カエデの色が白壁に映ります

参道

木漏れ日でカエデの色が鮮やかです

本坊西門、別名:赤門
赤門の詳細はこちらから

参道は徐々に高度を上げてゆきます
ベストシーズンは、この付近袖がふれ合います

参道通用門
通用門の詳細はこちらから

参道に地蔵尊が整然と並んでいます
千体地蔵とよばれています

地蔵堂、アジサイが咲いていました

地蔵堂

地蔵堂内部

護摩堂、平成18年(2006)に新築
 境内に入るとお地蔵様の多さに圧倒されます
(編集子の記憶をたどると、ここ15年で整ったようです)
千体地蔵として、石仏が参道や境内に鎮座しています、その数ざっと2000体以上
一体ごとに前掛けをかけ、今どきのカラフルな塩ビ製風車が添えられています
一陣の風が吹き抜けるたびに、静かな境内が賑やかになります
宿業にとらわれている人の心を解ほどくように・・・・

地蔵信仰とは
地蔵信仰はインドに起り、中国を経て日本にもたらされたという地蔵菩薩の信仰です
地蔵は地獄に落ちて苦しみにあう死者を、地獄の入口で救済すると信じられています
地獄の入口を村境にあてはめ、その境の神の信仰と結びついたと言われています

今昔物語などには「悪いことをしたら地獄に落ちる」という思考で
意識の中で地獄が恐れられ、しだいに地蔵が重んじられるようになります
南北朝から室町時代には、「現世利益」への民衆信仰がおこります
戦国時代には武士の危機を救う「身代わり地蔵」など
極限の状態におけるこころのよりどころを願い仏に託す(信仰する)ようになり
戦場などにも懐中したといわれます
すなわち、地蔵菩薩によって
前世や現世の業縁によって地獄に堕ちた人々が救済されるという信仰です

他方、阿弥陀様や観音様など他の仏様は
人々を地獄に堕とさないための信仰だといわれます
すなわち、死後は地獄に堕ちることなく極楽往生できるという信仰です
民衆は
当然のことながら
このわかりやすい「現世利益」に飛びついたと考えます
滋賀湖東地方では
今でも地蔵盆など、お地蔵様を信仰する行事が盛んです

豆知識・・・・お地蔵様と閻魔様は同一人物です(十王信仰)
人が亡くなると一定期間喪に服します
その期間は、一般的に49日間ともいわれます
 忌明けは、普通七七日(なななのか)ですが
三月(みつき)にわたることを嫌われる場合があります
そこで
 五七日(いつなのか)で忌明けをすることも許容されています
その日に照応(二つのものが互いに対応すること)する仏様が地蔵菩薩です
そして、その王が閻魔大王です

生前の善悪のみでなく
死後に遺族が行う追善供養も重要な要素ということです
これが
私たちが親しい人とのお別れに際する心の在り方の根拠となるひとつと理解しています

自分一人を救済するのは地蔵菩薩であり、他の仏様です
私たちは、それを信仰します
さらに多くの人を救済するのが
千体地蔵の存在
ではないか、と思っている今日この頃です・・・・

つづきは コラムひとりごと こちらからどうぞ

十三重の石塔と千体地蔵

千体地蔵

千体地蔵

長い参道もまもなく・・・・

二天門
二天門詳細はこちらから

二天門からの本堂

鐘楼

銅製梵鐘

手水鉢と龍吐水

宝塔

石造大香炉
寺紋:菊に四つ目菱
         本堂大悲閣(国宝)
入母屋造、桧皮葺の和様仏堂で中世天台仏堂の代表作とされています。桁行7間x梁間7間。
建築年代は、南北朝時代の弘安11年(1288)に佐々木頼綱の再建とされ、和様を基調とし、正面柱間をすべて蔀戸とし、組物には禅宗様が見られます。本尊を安置する厨子も同時期の作とされ、本堂の「附(つけたり)」として国宝に指定されています。

本堂内には、阿弥陀如来坐像二尊、不動明王立像、毘沙門天立像、四天王像四尊、大黒天半跏像、十一面観音立像の十尊は、いずれも重要文化財で、間近に参拝することができます。

本堂

本堂(国宝)

本堂正面
柱間に蔀(しとみ)戸がはめられる(和様の特徴)

本堂扁額「大悲閣」
大悲閣とは、観世音菩薩像を安置した仏堂

本堂縁

修理復元前は三層目がない無残な姿でした

三重塔(重文)

本堂脇からの三重塔 

 三重塔の相輪

 二天門:帰路

二天門階段下

参道脇には清涼水が流れる・・・・

参道中門

苔むした林の中に稲荷社

稲荷社

石組み庭園「一富士二鷹三茄」、富士以外不明

明寿院表門、別名:白門
表門の詳細はこちらから

金剛輪寺本坊明寿院
昭和52年(1977)焼失、同53年再建

木戸門、庭園への通用門
木戸門の詳細はこちらから

回遊式庭園

玄関書院南側庭園:桃山期の庭で南池

「下馬」の標柱が庭園に、これ不思議・・・・

桃山期庭園の石組みと石橋

水雲閣(茶室)

護摩堂、江戸時代、正徳元年(1711)の建立

水雲閣(茶室)の懸崖部
茶室水雲閣は、安政年間(1854-1860)の建立

閣は、護摩堂共に昭和53年の火災を免れました
 本格的な二畳台目の茶室で
待合の格天井には
四季の花々が描かれているそうです
慶応4年(1868、明治元年)、当地で官軍草莽隊(そうもうたい)である赤報隊が結成された折、密談の場となった処が茶室水雲閣だと伝えられています。王政復古により官軍となった長州藩・薩摩藩を中心とする新政府の一部隊で、水口藩士や江州出身者も組していると伝わります。そのうち著名なのは、薩摩藩の相楽総三。

草莽:民間にあって、地位を求めず、国家的危機の際に国家への忠誠心に基づいて行動に出る人たちが集まり、赤報隊(赤心を以て国恩に報いるから)を結成。他に奇兵隊・天誅組などがある。

赤報隊は、旧幕府軍を挑発するために江戸の市街を焼き払ったり、金品を強奪したりと、必ずしも正規の軍とは言えない一面がありました。
結果的には、新政府から見放され、多くが処刑され、名誉も回復も一部にとどまっています。

仏殿書院東縁側から江戸初期の観賞式庭園:東池

東池から北池方向 
東池:枯れ滝を中心にして

東池と茶室水雲閣 

笹舟様の舟石、江戸中期の庭園:北池、七福神の宝船を表すものだそうです
 石橋

北池脇から本坊の屋根がのぞく

本坊の切妻

書院北縁から茶室方向

水上の彩

書院南縁から北縁を見る

東縁にかかる扁額「無量寿殿」

仏殿扁額「瑞雲」

護摩堂高台からの仏殿

庭園観賞は再び南池に戻ります

庭園出口

庭園出口外側

書院玄関前

明寿院表門背面

参道:突き当りを左へ、右には赤門

昼下がりのスクリーン:惣門前の築地塀 

惣門前

門前からの秦川山(別名:松尾寺山)
   
山里の彩:3種/10枚、金剛輪寺山中にて 
山の彩りスライドショー はこちら 
 
盛夏到来、金剛輪寺は紅葉の名所として、滋賀県のみならず全国的に知られているようで
関東圏のツアーの方々もよく出会います。近くの資料館で「湖東 鋳工の名工」と題する企画展にあわせて拝観にやってきました
紅葉の古寺もいいのですが、夏の古刹もいいものです
深緑の間から漏れる強い日差しも格段に弱められ、過ごしやすい空間が出現しています
もちろん盛夏ですからそれなりの代謝は当然です
しかし、写真でお分かりのごとくフレームには人影がありません
山旅の疲れをリフレッシュする意味でも、古寺探訪は編集子にとっての清涼剤です

             紅葉時の金剛輪寺はこちらからご覧いただけます
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