【 画竜点睛 (がりょうてんせい) 】
  梁(中国史:502〜557年)の時代
  画家:張僧ヨウ(ちょうそうよう)(※ヨウ=少+缶+系)が
  金陵安楽寺の壁画に白竜を描いて、その睛(ひとみ)を書き込んだところ
  たちまち風雲生じて白竜は天に上った、という故事から・・・・
     物事の眼目となるところ
     物事を立派に完成させるための最後の仕上げ
     また、僅かなことで、全体がひきたつたとえ
     「ーを欠く」                               ( 広辞苑 )


物事の核心
それを弁え(わきまえ)ているのといないのとでは、結果に大きな開きがあります
たとえ一幅の絵にしても
それがあると「昇竜」にもなり得るし
無ければ「絵に書いた餅」

一流:プロフェッショナル、といわれる方たちは
素養が身についていて、更なる努力を重ねられ
自ずと、人の心を打つ物事に仕上げられます
「画竜点睛」が、ごく自然のうちになされています


編集子を含めた凡人は、周りがよく見えていない場合があります
当事者は夢中で事を行っていますが、他人の耳目や目先のことばかり気にして
全体を掌握していないためにおこる弊害
すなわち「絵に描いた餅」で、「瞳」が抜け落ちていることにきずきません
自分ではこれでよいと思っているのならば、いた仕方ないことなのですが
経験者や熟練者から見ると、一味加えたい気持ちに駆られることでしょう

次元が違いますが
「織田が搗き、羽柴がこねし天下餅、ただ楽々と食うは徳川」という落首があります
徳川家康が餅を食えたのも、用心深く詰めをしっかりしていたからでしょう
もちろん補佐役の存在も大きかったことはいうまでもありません

私達は、描いた餅(企画)が完成(実現)するために、色んな準備をし、取りかかります
マニュアル社会では、均一なものが求められるために
「瞳を欠く」ことはないと思われますが
逆に個性的なものができず、画一的で面白みに欠けるかもしれません

弘法大師が額に文字を書いて掲げた所
『応』の字の始めの点、が抜けていることにきずき
墨を含ませた筆を投げつけて文字を完成したという
「弘法も筆のあやまり(どんな名人にも誤りはある)」の逸話も(今昔物語)
編集子的には、画竜点睛に並ぶ逸話でもあります


水神の化身であるといわれる竜
中国では、神霊視される鱗虫(りんちゅう:うろこのある虫)の長とされています
また、竜は「皇帝」の象徴で、権力・力を現すときによく使われます
仏寺の堂の天井に雲龍を描くのは
一種の火災に対する防御の意味を持つといわれます
田舎の住宅の屋根に「水」と書かれているのも、その延長線上にあります

誰もが知っている竜、しかし誰も見たことがない竜
坂本竜馬に人気があるのも
私達はそんな所に、色んな思いを託すのかもしれません・・・・
先人が長い年月をかけ、熟成・醸成させてきた「竜」への思いを大切にしたいものです
私達は、よく親切という行為を行います
これは自分の思いを相手に対し配慮するわけですが
当然のことながら
相手はその好意の裏側に潜んでいる「なにか」を憶測してしまいます
相手のことを知らないとなおさらです
そして、警戒を解けないため、親切を断ったり、途中で遠慮したりしてしまいます

親切をする側は、見返りなど求めない純粋な気持ちであっても
受ける側の気持ちのありようで、親切も迷惑に変化してしまいます
親切にレベルや価値があるとするならば、その値も上下してしまいます
親切の押し売り、おせっかい、媚びへつらい、ほめ殺し、などなどと・・・・


権利意識が高まり、自己中心的な人が増えてきた世相の中で
義理や人情がなくなり、親切も警戒される世の中になってきてしまいました
ゆえに、人にやさしくする思いも、中途半端にならざるを得なくなってしまいます


仏作って魂入れず」という言葉があります
(苦労して物事をほとんど達成しながら肝要の一事を欠くことのたとえ)
私達が目的を持って事をなすとき
結果がすべてという考え方、過程が大事という考え方、成行きまかせという思い
などなど・・・・

いろんな考え方がある中で
少なからず、達成までの過程を念頭に描きながら取りかかります
が、思いが途中で挫折したり、頓挫することもあります
それは結果論であり、実践したことに価値があるわけで
またやり直せばいいことだと思います、それも過程のうち・・・・
そのかいあって、物事が達成され仕上げとなるわけです


建物などが出来上がったときに竣工式
宗教建築物などでは、落慶法要
仏様などでは、開眼供養、というものが行われます
これなども、具体的な入魂の意識を高める儀式です

成果主義の人たちには
過程を重要視するという、このような考え方は受け入れられないわけですが
相手に対し、結果を求める事のみに主眼がおかれ
そのために、性格的に弱い人たちはつぶされてしまいます
世の中、強い人ばかりではありません
弱者には弱者なりの思いがあり、目指すところは同じです


しかし、強い人でも、事がなされたときに
肝心の一事が抜け落ちていることが時としてあります、おこります
相撲では「うっちゃり、肩すかし」という技があり
サッカーでは「魔のロスタイム:ドーハの悲劇」と話題になり
野球では「魔の一球」で代打逆転満塁ホームラン・・・・
詰めがあまいとか、緊張感がないとか、中途半端などと、批判の矢面に立たされます
誰にでも、「魂の入れどころ」があるということなのかもしれません・・・・
そんなとき、「画竜点睛」という言葉が浮かんできます
雑学
吐水竜(とすいりゅう)は手水所で水を吐き出す導水管として使われていますが
竜吐水(りゅうどすい)というものがあります

消火用具の一種で、大きな箱の中に押し上げポンプの装置を備え
横木を上下して、箱の中の水を噴出すようにしたものです  ( 広辞苑 )

いわゆる水鉄砲です
水神の化身である竜が、水を吐き出して火を鎮めることを願っての命名なのでしょうか

宝暦3年(1753年)に、オランダ人の指導を受けて長崎で製作されたのが
竜吐水の最初とされ、水の到達距離はせいぜい10数メートルだそうです
慈恩護国禅寺 吐水竜
撮影日:2007.03.18、(晴)
所在地:岐阜県郡上市

郡上八幡にドライブした時
立ち寄りました
村雲御所 吐水竜
撮影日:2007.02.12、(晴)
所在地:近江八幡市

鶴翼山(八幡山)/望西峰
山行時に立ち寄りました
705版:平成19年05月05日 土曜日
画 竜 点 睛
太郎坊宮 吐水竜
撮影日:2007.04.19、(晴)
所在地:滋賀県東近江市

箕作山/赤神山
山行時に見かけました

改めて参拝に行った時の
スケッチです
湯谷神社境内 吐水竜

旧国鉄が民営化されたとき
廃止された米原機関区に
あった「大神宮」が湯谷神社の小宮として神社庁に登記され遷宮されました
その近くにありました
山行に見る 吐 水 竜
一緒にいってみたいなこんなとこ
みたいな
山葵の山行まっぷ
印の県に「目的地」があります
県名
今日のことば
岐阜
滋賀
神社仏閣にまいりますと
手水所(ちょうずどころ:みたらし)
があります
神聖な場所に参拝する前に
手や顔を洗い清める所です
水道管から
直接水が出てくることもありますが
作り物の竜の口から
水が出てくる所があります
この竜を「吐水竜」と呼んでいます
広辞苑では掲載されていませんが
hpなどでは認知されているようです
竜は雲雨を支配する力を持つ
想像上の動物です
祈雨祈晴の竜神の象徴として
手水所に吐水竜があるのは
このためなのでしょうか・・・・
今回のアルバム特集は
画竜点睛の「竜」にちなんで
山行で出会った「吐水竜」の登場です
山呼-リスト
※ご参考までに
このコラムは
管理人のひとり言です
黒や灰色の文字は
編集子のオリジナル
カラー文字は編集子所蔵
資料からの引用です
湯谷神社 吐水竜
撮影日:2007.02.25、(晴)
所在地:滋賀県米原市

菖蒲嶽城址/太尾山城址巡り
山行時に立ち寄りました

手水鉢は彦根藩井伊家
九代藩主井伊直惟(なおのぶ)
が享保17年(1732年)に
献納したとの
由緒書がありました
竜が佇んでいる石鉢がそれ
山呼らいぶらり〜
雨宮竜神社 吐水竜
撮影日:2007.01.05、(晴)
所在地:滋賀県東近江市

繖山山行時にみかけました
左側面
右側面
正 面
関連項目として
434版 龍頭蛇尾 」、「506版 龍蛇混雑 」をこちらからご覧いただけます