私たちは山野に出て
日常の風景とかけ離れたり、優れた景色を目の当たりにすると
「
絶景かな、絶景かな・・・・」と、感嘆の声を上げます
ところが、その景色をいつも見ていますと、それがあたりまえになり
「
絶景」が普通の景色になってしまいます※編集子が感ずる絶景は「
山聲十選」をご覧ください
楽しては行けない所に在ったり、たまにしか目にしないから、そのように感ずるわけですが
そんな人のために、舗装道路や空中移動装置をもうけ、絶景といわれるところまで導いてくれます
皮肉なことに、それ自体絶景になっていたり絶景へのアプローチとしての位置づけになっています
汗水流して、己の脚が悲鳴を上げるのをなだめながら山頂に頭を突き出すと
そこには、ハイヒールを履き着飾った人が高山植物群の中に入って記念撮影、「絶景、絶景」・・・と
だれがそんな開発を決定するのかしたのか、その中枢にいませんので経緯はわかりませんが
経済活動の結果だということは容易に想像(認識)できます
その関係者の中に、自分の関係者や間接的に自分自身が加わっていたり(加担)しています
いわゆる、加害者と被害者の関係が同一人物のなかで起こっています
たとえば、原子力発電を反対していながら電気を利用しているのと同じようなことでは・・・・
編集子が物心ついた頃には、鉱山開発により山肌を削るなどの行為が行われていました
世の中が豊になってくると、その行為に対し、開発の中止を求める声があがってまいりました
当の関係者の回答のなかに、「何千人という人の生活がかかっている」
というのがあったように伝えられています(一種の開き直り、今ではこの論法は通じないかも・・・・)
列島改造の嵐が吹きまくっていた時代は、それが美名の下に行われていると錯覚していたのかも
いまでは、内部告発などが社会的に認識されてはいるようですが
現実には、物申すことなど、なかなかできないような仕組みに組み込まれているようです
現に、操業は今も続いていることからも・・・・
古今東西、為政者や政所は利害の小さいものや声の小さい個人がいっても取り上げてくれません
ましてや何も言わなければ、何もしてくれません・・・・、何もしないところ(人)なのですから・・・・
しかし、何とかしなければなりません
悲しいかな、弱い者はソウ思うことしかできないのです、誰かがやってくれるだろう・・・・と
開発という名の破壊、永遠の課題です・・・・
「絶景かな、絶景かな」といった、と言われるのは、ご存知の盗賊:石川五右衛門
歌舞伎『楼門五三桐(さんもんごさんのきり)』でおなじみの南禅寺でする見得の科白
(せりふ)です
「
絶景かな、絶景かな、春の眺めは値千金とは小せえ、ちいせえ」と・・・・
また、
「石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」
が知られています(辞世の句とされています)
大泥棒となった五右衛門は、秀吉の寝所に忍び込み千鳥の香炉を盗みに入ったところが御用・・・
浄瑠璃や講談などで義賊扱いされ、勧善懲悪など庶民の願望が五右衛門の伝説に輪をかけ・・・・
人間とは、人の物や人の心を盗んだり・・・・と、それは今も昔も変わりません
そして、あしたも、これからも、♪いつまでも 絶えることなく・・・・
「衣食足りて礼節を知る」という言葉があります
民は生活が豊になって初めて、道徳心が高まって礼儀(栄辱)を知るようになる
・ 礼 :社会の秩序を保つための生活規範の総称、重要な道徳的観念、敬意をあらわすこと
・ 礼接:礼を持って人に接すること ・ 礼儀:人の行うべき礼の道
・ 礼節:貴人に対して礼を行う作法、礼儀のきまり ( 広辞苑 )
「礼」は、幼き頃より大人に教えられてきました、これに反し昨今の世相は
耳目を覆いたくなるようなできごとばかり、この言葉もいずれ死語になるのではと危惧して・・・・
萬福寺 三門(重文) 山行日:2005.03.07、(晴) 所在地:京都府宇治市
黄檗宗の総本山で明朝様式の伽藍が整っていることでも知られ、二重門の構造です
江戸時代に隠元禅師によって創建され、山門を入ると日本の風景と少し違う感じが漂い
少なからずカルチャーショックがおこるかも・・・・
「山門を 出(いづ)れば日本ぞ 茶摘歌(菊舎尼)」 詳しくは、
こちらをどうぞ