磯山城址
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山頂の平削地
※祠は磯崎神社の山上祠
とらがじょう
虎ヶ城
別 名   遺構等 土塁、曲輪跡
地  域 25znw:彦根東部/北西SW   現 状 山林+頂上
Mapion 滋賀県米原町磯   築城者 松原氏
標  高 160m/87m=73m   築城年 室町時代
訪城日 2009年12月25日(晴)   形 式 平山城
山悠々 磯山/物生山070405
磯山091225
  規 模 東西50mx南北200m 
概要 磯山城と虎ヶ城の境は明確ではなく、別城一郭の城であったと考えられています
磯崎城(いそざきじょう)
彦根市松原町/米原市の磯山城と同一城と考えられている説もあります
磯崎氏が城主で、浅井氏によって陥落
以後、浅井氏の対六角氏の基地となった
という説です

また
彦根市松原町にある松原城遺跡/磯崎城(現在の旧彦根藩松原下屋敷隣)にも磯崎城の文字が出てきます。
位置:25znw:彦根東部/南西NW 
撮影場所:琵琶湖(岸米原入江)、磯山から北東に約1.7km
                     撮影日:2007.02.26
磯 山 (いそやま)
近江の城山-TOP
山聲-TOP
いそやまじょう
磯山城
別 名   遺構等 土塁、曲輪跡
地  域 25znw:彦根東部/北西SW   現 状 磯崎神社祠+山頂
Mapion 滋賀県米原町磯   築城者 松原氏
標  高 159.5m/87m=73m   築城年 室町時代
訪城日 2009年12月25日(晴)   形 式 平山城
山悠々 磯山/物生山070405
磯山091225
  規 模 東西50mx南北200m 
概要 佐々木六角氏の城
永正年間(1504〜1521年)に京極家の手によって落城、その後浅井亮政の時代には浅井方の城として機能。1570年、佐和山城に立て籠もる浅井方に対し織田方が築いた付城(※1)とも云われています。
井伊直政が関ヶ原合戦後、佐和山城を廃し、城を築く際にこの磯山を候補の一つにしたといわれています
信長公は横山城の城番に木下藤吉郎を入れ、みずからは7月1日磯野丹波守員昌の籠る佐和山城の攻略に向かった。佐和山では四方に鹿垣をめぐらし、城東の百々屋敷に砦を構えて丹羽長秀を置き、北に市橋長利・南に水野信元・西の彦根山に河尻秀隆の各将を配置して諸口を封鎖し、四方(※1)より攻撃させた。

7月6日(正確には7月4日)、信長公は数騎の馬廻のみを引き連れて京へ入り、公方様へ戦勝の報告をおこなった。京には数日滞在して戦勝参賀の使者の応対などをし、8日に岐阜へ帰還を果たした。

磯山三角点
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中峰
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磯山南峰
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磯山城址
 
虎ヶ城址
永禄13年(1570年、4月23日元亀と改元)の記述
信長公記 第三巻
 「金ヶ崎撤退〜姉川の戦い〜近江志賀の陣」より抜粋
※1 四方の付城うち、北の城が磯山城と言われています。
   近年では、物生山城がそれではないかという説があります。
【 参考 】
撮影場所:彦根市松原町(近江高校北門前)、磯山から南に約2.0km
                              撮影日:2007.04.05