やばけいあおのどうもん ルート 青の洞門駐車場(10:20)〜耶馬渓橋(10:30)
〜競秀峰(11:10/13:30)〜駐車場(13:40)
〜羅漢寺(13:50/15:00)〜羅漢寺橋(15:10)
耶馬渓青の洞門
地  域 44:耶馬渓東部/北西N 概要 諸国遍歴の旅の途中ここに立ち寄った禅海和尚が、断崖絶壁に鎖のみで結ばれた難所で、通行人が命を落とすのを見て、ここにトンネルを掘り安全な道を作ろうと、托鉢勧進によって掘削の資金を集め、石工たちを雇ってノミと槌だけで30年かけて掘り抜いたといわれます。寛延3年(1750)の第1期工事の完成後には、通行人から人4文、牛馬8文の通行料を徴収したという話が伝わっており、この洞門は日本最古の有料道路ともいわれています。安政元年(1854)から安政3年(1856)にかけて制作された、歌川広重の豊前国の名所として描かれています。青の洞門のある競秀峰は、中津市出身の福沢諭吉が、景観を守るために土地を買い取ったことでも知られます。明治40年(1907)、陸軍が輸送路整備のために大改修の拡幅を行いました。この工事の結果、完成当初の原型はかなり失われましたが、採光窓等の一部に手掘りのノミの跡が残っています。
Mapion 大分県中津市本耶馬渓
標  高 65m/52m=13m
距  離 約―km、斜度:max―°
体力度 ―P、☆
山行日 2010.03.25、(雨/曇)
形  態 前後泊、3名
時  間 所要03:20/歩行00:40
アクセス 自家用車、13:00
備  考 競秀峰鎖場あり

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釣鐘岩
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青の洞門
耶馬溪橋
(オランダ橋)
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競秀峰
青の洞門の下流にかかる8連アーチ石橋で、その橋長は116m、アーチ長:12.8m、大正12年(1923)
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隧道の明り取り
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隧道の北口
僧禅海が享保20年(1735)から宝歴13年(1763)にわたる29年の歳月をかけて掘った洞門は、削道の長さ342m、内洞門の延長が144m。岩は火山灰や火山れきから作られた耶馬渓層の凝灰角礫(れき)岩で、比較的軟らかいそうですが、ノミやツチだけで完成させたといわれますから想像以上の困難があったと思われます。工事の進んだ寛政3年(1750)には、人馬が通行するとき、人は4文、牛馬は8文の通行料をとったと伝えられています(現在は無料)。有料道路の始まりとされています。その後、度々の改修で現在は大型バスも通れるほど大幅に拡幅されていますが、 当時の洞門の一部の壁面や明り窓が保存され、ノミの跡が禅海の労苦を物語っています。                                   (wikipedia・他、編集)
隧道の北口、青の洞門の石碑が立っています
疑問のエピソード 洞門完成後、近くに庵を構えた禅海は
有料道路で得た収入で身の回りの世話をしてくれる人と、何不自由なく暮らしたとか・・・・
禅海和尚が彫った時代の洞門
隧道中間の切れ目
競秀峰
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青の洞門
小国川河川敷からの洞門
主人の妻と不義をして、主人を打ち果した下男の市九郎(禅海和尚の本名)が
過去の罪消滅のため、30年の歳月を費やして掘り、その交通難を除き
巡り会った主人の息子を感激させ仇打ちの請願を解消せしめたという伝説のある青の洞門。

競秀峰の裾にくりぬかれた青の洞門は
その経緯を菊池寛が「恩讐の彼方に」で小説化し、 国語の教科書にも載ったことから
広く知られる観光名所となっています。※「主殺」は菊池寛の創作といわれています
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青の洞門
駐車場近くにある禅海和尚のモニュメント
洞窟内から羅漢寺本堂
中央部の洞窟外縁には雨水が落ちています、水量が多いときは滝だとか
羅漢寺
競秀峰の展望所のひとつである「陣の岩」からの北側展望
小国川の青の洞門の上流にかかる石造の3連のアーチ橋、橋長89m、橋幅:4.9m、アーチ長:26.25m
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羅漢寺橋
青の洞門の対岸からの様子
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隧道切れ目
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隧道南口
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隧道切れ目
青の洞門の対岸からの様子
耶馬溪橋(通称:オランダ橋)
洞門北の入口、隧道の横につながっています
洞門の北の入口(洞門内部から)
洞門の中間部分、明り取りの開口があります
・隧道(すいどう・ずいどう:トンネル)は
 人工的・自然にに掘られた土中建築物で断面積2.0u以上のもの

・洞門(どうもん):ほらあな、うつろな穴
方法の違いは明り取りがあるかないかとの説もあるようですが、これには少し疑問があります・・・・
隧道中間からの小国川上流
青の洞門の南口
駐車場近くの小国川河川敷からの洞門
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旅悠遊-大分/耶馬溪
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