ぎじゃくせんらかんじ ルート 羅漢寺(13:50/15:00)
耆闍崛山羅漢寺
地  域 44:耶馬渓東部/北西C 概要 羅漢寺は仏教寺院の通称で、修行者である羅漢を祀る所からその名が付けられています。紹介の羅漢寺は、本耶馬溪地区にある羅漢山の中腹に位置する曹洞宗の羅漢寺です。大化元年(645)にインドの僧法道仙人が、この岩山の洞窟で修行したことから開基された寺と伝えられています。岩壁に無数の洞窟があり、山門も本堂も羅漢山の中腹に位置しています。洞窟の中に3700体以上の石仏が安置され、中でも無漏窟(むろうくつ)の五百羅漢が知られています。境内には、たくさん願い事が記された「しゃもじ」が打ちつけらています。「しゃもじ」で願い事を救う(すくう)ということだそうで、かなわぬ願いはないということです。 寺域内には禅海堂があり、青の洞門を掘削した禅海を祀り、遺品が展示されています。岩壁の洞窟には、山門も本堂もその中に埋め込まれるように建築されている特異な景観が拝観でき、耶馬渓羅漢寺の景として知られています。
Mapion 大分県中津市本耶馬渓
標  高 177m/82m=95m
距  離 約―km、斜度:max―°
体力度 ―P、☆
山行日 2010.03.25、(雨/曇)
形  態 前後泊、3名
時  間 所要01:10/歩行:00:40
アクセス 自家用車、13:00
備  考 石畳湿潤時スリップ注意
周辺案内図(現地看板)
享禄3年(1530)から天正15年(1587)まで、豊後国一帯を治めたキリシタン大名大友宗麟は、領内寺院すべてを邪宗として焼き払いました。羅漢寺に攻め上がってきた時、この龍の眼から光が発せられ、これにより将兵は力を失い、寺は焼き討ちを免れたといわれています。(現地看板)
本堂前からの南側展望
羅漢寺は昭和18年に大火災により消失、現在の本堂は昭和44年の再建
羅漢窟から本堂に続く窟内から羅漢窟を見る
奥にずらりと並んだ羅漢さんを見ていると、誰かに似ていると思える像があるといわれます
まさにその通りで、私の知人に似た羅漢さんも奥の方にいたような・・・・
羅漢とは釈迦の高弟のことで、夫々に名前があります。その第1の高弟に位置付けられているのが、ビンヅル(ビンドラバラダージャ)で、五百羅漢が安置されている無漏窟(むろうくつ)の外に座っています。これは、ビンヅルがあまりにも明晰で、釈迦の考えていることが全てわかるため、釈迦から敬遠され、外に出されたからだといわれています。また羅漢は、多くの人々の悩みや悲しみも救いあげる存在に次第に変わっていきました。                   (現地看板)
羅漢像
羅漢像
羅漢窟の入口
延文4年(1359)、僧逆流建順(ぎゃくりゅうけんじゅん)がこの地を訪れ、昭覚(しょうかく)禅師と共に、僅か1年で700余体の石像物を建造しました。境内には、無漏窟(むいろうくつ、五百羅漢窟)があり、窟内には様々な表情をした五百羅漢などが安置されています。   (現地看板)
鐘楼と羅漢窟
鐘楼
山門を額縁にして
禅宗は臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の三宗です。扁額を書いた即非和尚が属する日本黄蘗宗
(もとは、臨済宗黄蘗派でありましたが、明治9年になって単立宗となる)は隠元禅師が開基
即非如一(そくひにょいつ)は、江戸時代前期中国の明から渡来した臨済宗黄檗派(黄檗宗)の僧。隠元禅師のにまねかれ、長崎県の崇福寺の伽藍を整備し中興開山、萬福寺二代目首座。隠元隆g(初代)、木庵性トウ(二代)と共に黄檗の三筆と称される。  (wikipedia)
扁額の「耆闍窟(きしゃくつ)」
山門
階段参道からみる山門
千体地蔵堂と舞台
リフト参道から見る千体地蔵堂の舞台
阿形像、像高:220cm
吽形像、像高:245cm
仁王門入口部分
曼陀羅とは、仏の悟った菩提の境地のことを言い、この曼陀羅石を境に山手方面(羅漢寺方面)は聖域とされていました。殿様などが参拝した際には、この石の ある場所で籠を降り羅漢寺まで歩いていたといわています。          (現地看板)
北 各辺:127cm

(仁王門側)
    西
(参道側)
禅海(ぜんかい)和尚は、江戸時代中期の曹洞宗の僧。越前国高田藩士の子、本名は福原市九郎。真如庵禅海といい、江戸浅草の住人、祖先は越後高田の福原氏であるといい、もと籍を曹洞宗に置く六十六部(日本全国66カ国を巡礼し、1国1カ所の霊場に法華経を1部ずつ納める宗教者)であった。両親が亡くなった事から世の無常を感じて出家し、諸国を行脚、耶馬渓の青の洞門を開削したものとして知られる。               (wikipedia)
ノミ
 ↓
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ツチ
 ↓
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青の洞門を手がけた禅海和尚の墓がある禅海寺
結縁地蔵尊のお堂
結縁地蔵尊のお堂
羅漢寺参道は階段ではじまります
中右側:千体地蔵堂の舞台、中右側:山門
左石段:リフト参道、右階段:仁王門参道
旧参道、青の洞門のほうに続いています
帰路仁王門、境内側から俯瞰
帰路山門、境内側から
石造の龍
鐘楼と龍
本堂
窟の中央縁から白いものが落ちています、これは雨で、多いときには滝にかわります
窟内からの本堂
石造の須弥壇(しゅみだん)
羅漢窟の内部
扁額、「無漏窟」
山門
仁王門そばの墓石とマムシグサ
千体地蔵堂の内部
千体地蔵堂の地盤面から見る
扁額 「羅漢護国禅寺」
曼陀羅石略図
曼陀羅石、写真上が北方向
青の洞門の掘削作業に使用されたツチとノミが展示されています
耶馬渓という名称の景勝地は日本各地にありますが、ここは、本耶馬溪という地域
青の洞門で代表される名勝。実質5日間の九州旅行で、行き先を選定するのはとても困難なことです
しかも天候が選定条件に加わるとなおさらの感があります
旅行前半、雨にたたられ、山行が変更になったおかげでこの寺に訪問ということに
石造の香炉
仁王門と同じく昭和18年の大火災の難を逃れた建物の一つです。室町幕府の三大将軍足利義満により建立されたといわれています。扁額の「耆闍窟山」は羅漢寺の山号で、禅宗の黄蘗の三筆の一人である即非禅師が寛文6年(1666)羅漢寺を参詣した際に書いたとされています。(現地看板)
上部に見えるのは千体地蔵堂
仁王門を過ぎると参道は階段にかわります
仁王門の裏側から
仁王門は、室町時代に建立され、門の天井には当時の将軍、足利義満より贈られた「羅漢護国禅寺」の扁額があります。昭和18年、羅漢寺大火災の難を逃れた貴重な建物です。門内に安置されている阿吽形の仁王像は寛延4年(1751)に製作されたものです。     (現地看板)
仁王門
参道は石畳です
リフトに通ずる参道、岩のアーチをくぐります
室町期に普覚(ふかく)禅師という高僧がこの千体地蔵と十王尊を刻み安置したとされ、納められている石仏の数は、1100体以上を数えます。また、地蔵堂の舞台が設置されたのは、万延元年(1860)で、千体地蔵が安置されてから約500年後のことです。         (現地看板)
山聲-TOP
旅悠遊-大分/耶馬溪
歩ッ歩ッ歩:山もゆる、一歩一歩の山あるき