歴史ロマンのただよう井伊谷、井伊氏中興の祖ともいわれる「井伊直虎」とは

井伊直虎(いい なおとら)は、戦国時代の女性領主。
22代当主:井伊直盛の娘として誕生、次郎法師と名乗る
遠江井伊谷の国人井伊氏の当主を務め
井伊谷徳政令など内政手腕に優れ「女地頭」と呼ばれました
井伊直親と婚約しましたが、時代に翻弄され生涯未婚
井伊直政のはとこであり養母。


藤原北家の流れをくみ、継体天皇(第26代、507-531年在位)の子で三国真人の後裔ともされる
(ともに、武家のならいで後世の関係者がまとめたもので信憑性はとぼしく、確証は無いとの説有)
寛弘7年(1010)、共保が井伊谷に住み、井伊氏を称し、そのはじまりとされます
以後、井伊谷を井伊氏が治め、平安時代には相当な実力を持った存在とされています

南北朝時代に南朝方の後醍醐天皇の
第四皇子である宗良(むねなが・むねよし、とも)親王をこの地に向かい入れます
南朝方に与した井伊谷城主の12代当主:井伊道政は
遠江の南朝方の領袖として宗良親王を奉じて、井伊谷城の詰の城であった三岳城に籠もり
子息の高顕とともに北朝方(室町幕府方)と熾烈な戦いを展開しました
井伊谷城も南朝方の拠点となりましたが、北朝方の高師泰・仁木義長らに攻められて落城し
12代当主:井伊道政は落命します

戦国時代に入り、井伊氏は駿河の今川氏との確執の末に臣従します
永禄3年(1560)、桶狭間の戦い
この戦いで、今川方の部将として22代当主の井伊直盛は従軍するも、討死してしまいます


この頃
井伊直盛に誕生した女子は、男子がいなかったため次郎法師と名付けられ
直盛の従兄弟にあたる井伊直親を婿養子に迎える予定でありました、が
天文13年(1544)、今川氏の与力である小野道高(政直)の讒言により
直親の父と兄に対し、今川氏への謀叛の疑いがかけられて自害させられます

直親も井伊家の領地から脱出、信濃に逃げのびました
直親の所在は秘され、許嫁であった次郎法師は、失意のまま出家(のちの祐圓尼)します
直親は、のちに今川氏に復帰しますが、すでに正室に迎えていたため
直虎は婚期を逸することになりました

家督を継いだ23代当主:直親は
永禄5年(1562)、今川氏の小野道好(道高の子)の讒言により
今川氏真に謀叛の疑いをかけられて朝比奈泰能によって討たれてしまいます
さらに一族を支えていた親族や重臣たちも討ち死にし、家中を支えていた者たちも失い
これにより井伊氏は一時的に滅亡します
このため、龍潭寺の住職であった南渓和尚(直虎の祖父の兄弟)により
幼年であった直親の子・虎松(後の井伊直政)は鳳来寺に移されます

このような経緯をへて、次郎法師は直虎と名前を変えて家督を継ぎ、当主※となりました
(※井伊家系譜では、直虎は当代として数えられていません)
一族の一族の敵である小野道好の専横は続き
永禄11年(1568)、小野道好に居城・井伊谷城を奪われます
小野道好の専横に反旗を翻した井伊谷三人衆に、徳川家康の加担を得て、城を回復しています
こうした経緯で、井伊氏は徳川家康に属するようになりました

元亀3年(1572)には、信濃から三河に侵入した武田信玄の部将山県昌景に敗れ
城を明け渡して浜松城に逃れています
元亀4年(1573)、武田信玄が病に倒れたため、武田軍はようやく撤退し
直虎は井伊谷城を三度目の奪還に成功しました

この間、直虎は許嫁の直親の遺児・虎松(井伊直政)を養子として育て
天正3年(1575)、直政は長じて家康に出仕します(このとき、直政15歳といわれています)
家康に仕えた井伊直政は武功を上げ、井伊氏を再興し、24代当主となりました

天正10年(1582)、井伊氏の再興に力を注いだ当主:井伊直虎は死去
墓は井伊家の菩提寺である龍潭寺境内に、許嫁の直親の隣にあります
奇しくもこの年、虎松改め万千代は、元服して直政と名乗ります
織田信長が武田氏を滅ぼしたのもこの年の事
この戦いの後
武田氏の遺臣たちは家康に起請文を出して従属することを誓います
そして、その一部の者が井伊直政に付けられ、有名な井伊の「赤備え」が誕生するのです
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦い
関ヶ原の戦い後、井伊直政はその功により、近江佐和山藩を所領し彦根藩の礎を築きました。


井伊谷は、関ヶ原の戦いの功により井伊直政の陪臣っであった近藤氏が3050石で拝領します。
慶長7年(1602)、関ヶ原の戦いがもとで井伊直政が亡くなると
近藤氏は池田輝政の仲介により家康の直臣となり、さらに大坂の陣の功で大名に列し
元和5年(1619)、井伊谷1万5000石として井伊谷藩が立藩しました。
当主の死後、親族に領地を分知し、1万石以下となって旗本となり、井伊谷藩は消滅しました。


NHKが大河ドラマの題材として、『井伊直虎』を主人公としたことにより
井伊谷は、一躍脚光を浴びることになりました
女性でありながら、戦国時代に井伊氏の当主として内政に尽力した人物で
「女地頭」とあだなされる人とは、どんな人だったのでしょうか・・・・
波乱万丈の物語の展開するドラマに期待が膨らみます

                                               (参考:wikipedia)
歩ッ歩ッ歩:山もゆる、一歩一歩の山あるき
いいのや-れきしたんぽう ルート 彦根〜浜松いなさIC(09:20)〜深奥山方広萬寿禅寺
〜竜岩ヶ洞〜万松山龍潭寺〜井伊谷宮〜渭伊神社
〜初山宝林寺〜浜松いなさIC(17:00)〜彦根
井伊谷-歴史探訪
地  域 22:伊平/北西S 概要 井伊谷は、浜名湖の北部に位置し、山間部の温暖な所です。徳川四天王の一人である井伊直政で知られる、井伊氏発祥の地です。古墳時代に祭祀場と考えられる磐座や渭伊神社、鍾乳洞、浜名湖五山(方広寺・龍潭寺・宝林寺:井伊谷、摩訶耶寺・大福寺:三ヶ日)の内の井伊谷三山があり、悠久の足あととして今に伝わります。戦国時代、尼として世俗を離れていた次郎法師(22代井伊直盛の娘で後の直虎、2017年NHK大河ドラマ『おんな城主直虎』放送予定)は、遺児:虎松(後の井伊直政、徳川家康に仕えて武功を上げ、近江佐和山藩を拝領し彦根藩の礎を築く)の養母となり、存亡の危機に瀕した井伊氏の救世主としての存在は、知る人ぞ知るところです。井伊谷は、井伊氏の陪臣であった近藤氏が大坂の陣の功により大名となり、井伊谷藩が立藩するも、親族に分知し旗本となり、僅か一代で井伊谷藩は消滅しました。歴史のロマン漂うところの史跡探訪です。
Mapion 静岡県浜松市北区
標  高 ―m/―m=―m
距  離 約―km、斜度:max―゜
体力度 ―P、Θ
山行日 2015.11.04、(晴)
形  態 日帰自、3名
時  間 所要―/歩行―
アクセス 自家用車、03:20
備  考 特に支障なし
山里の彩:02種/08枚
撮影日:2015.11.04
井伊谷山麓にて
(静岡県浜松市北区)
この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)
数値地図25000(地名・公共施設)、数値地図250mメッシュ(標高)、数値地図50mメッシュ(標高)
および基盤地図情報を使用して作成しています。(承認番号 平25情使 第539号)
表示測地系:WGS84、経緯度線@10''(緯線:1間0.3km・経線:1間0.25km、斜め≒0.4km)
※ボタンをクリックすると詳細が表示できます、写真クリックで拡大写真が表示されます
※タイムオーバー
  により望遠のみ
井伊谷城址
渭伊神社
天白磐座遺跡
竜ヶ岩洞
初山宝林寺
萬松山龍潭寺
井伊谷宮
宗良親王墓
井伊谷旧跡探訪案内図(龍潭寺に掲示)
深奥山方広寺
山聲-TOP
探訪記-静岡浜松