被り物を身につける理由としては、次のようなことが考えられます
 ・ 物理的機能性としては
    頭部・顔面の保護
    風雨や日光、寒暖、茨、塵埃、小動物、その他汚染から身を守る必要から
    鉢巻など、運動性向上の為に身に着けられる物

 ・ 社会的装飾性としては
    ファッションといった風俗・嗜好的な理由
    祭事などの宗教的装束や、身分に基づく装束(烏帽子や冠など)
    中世前期に置いては、身分に沿った被り物(通常は烏帽子)を被りました
    頭を人前にさらす(露頭)という事を、非常な恥と考えていた様です

そしてこの被り物と密接に関わっていたのが、日本独特の髪形「髻(もとどり)」です

この「冠」を身に着ける時が、今で言う成人式にあたります(冠婚葬祭の冠にあたる)
昔の武家社会で行われていた「元服」も成人の行事で
男子は15歳で子どもの頃の髪型や服装を大人の物に改め
女子も「髪上げ」といって13歳前後に大人の髪型にしました

近代になり、満20歳になると、社会人として法律上でも大人として認められます

いろいろな行事(結婚式、法事、公共行事など)に参加することも多くなります
そういう場に着ていけるフォーマル(形式的・儀礼的)な装いの成り立ち考え
衣服と共に、精神面においても、TPO(時・場所・場合)をわきまえることも重要です
ファッションといいながら、多くの人が目を覆いたくなるような姿態が氾濫しています
公衆と私的の使い分けを、今一度考えてみることも必要なのではないでしょうか
犯罪の若年化により、少年法の見直し、成人を18歳とする意見がでてくるのも
時代のすう勢として必然なのかもしれません、考えさせられます・・・・

社会的な価値観の変化に伴い、旧態の冠婚葬祭の行事も様変わりしてまいりました
以前のものの考え方が不合理になってきていることも理由の一つで、多々あります
食生活や服装、生活様式が欧米化に向いている昨今
日本古来の風習や因習が、継続できなくなってきました
なぜなんでしょう
・・・・、理由の一つが人間関係の希薄化だと考えられますが・・・・

たとえば、○○○○は自由の国だ、だから私は○○○○で生活したい、など・・・・
私達は身勝手なもので、自分の都合の好いところだけを取り入れようといたします
自由とは、いったなんなのでしょうか・・・・
勝手気ままに、心のままに行動することなのでしょうか
いな、自由は一定の前提条件の上に成り立っています、他人に対しても同じこと
すなわち自然・社会の法則の認識を通じて実現されるもので
絶対の自由は私達にはありません、すなわち責任が伴うものなのです・・・・

カントの言葉をかりると、次のように説いています
      感情的な欲望には束縛されないが、理性的な道徳命令に服すること・・・・
一方、サルトルは、存在構造上は自由であるが
      常に未来への選択へと強いられており、それ故自由は重荷である・・・・


私達は、欲望のまま自分がよければ何をしてもいい、自由じゃないか・・・・
などと、自己中心的なものの考え方で行動しているのが現実です
生活習慣や因習などの風化により、人の心を踏みにじる行為が多々見受けられます
「美しい国・・・・」、言っている人たちはどのような思いで言っているのでしょうか
私利私欲でなく、心からそう思っての発想だとは思いますが
そんなことは、多くの人が常に思っていることで、人からとやかく言われることではなく
こんなことで「美しい国」になるなんて誰も思いません、ましてや法律でなんて・・・・

私達の行っている山行は、すべて自己責任の下で行います、
昨今、色んな社会活動の中で、責任の所在が曖昧であったり、なきに等しき状態です
社会的に指導者と呼ばれる人達をはじめ、若者やより多くの人々に
ぜひ山の上に自分の足で立ち、足元を見ていただきたいものです
人心を上から見るということではなく、すべてを見通せる広い視野(大局)をもち
人間の尊厳の重さや、自然が如何にかけがえのないものか、初心に戻り考えて・・・・
        註:本稿作成に当たっては、広辞苑・Wikipediaなどを参考にいたしました
【 威儀を正す(いぎをただす) 】
  威儀:重々しく厳しい挙動、作法にかなった立居振舞い      ( 広辞苑 )


私達の日常生活の中で、人に接する態度としては
 ・ 畏まる(かしこまる:威儀を正して正座する、つつしんで目上の人の言葉を承る)
 ・ ざっくばらん(心中をさらけ出して隠さない、遠慮がない)
 ・ 砕ける(くだける:打ち解ける、儀式ばらない)

などなどの状態があります

年上や目上の人には、敬意を払い媚(こび)をうらず
同僚や同年代の人には:フランク(さっくばらん)に、されど謙虚に・・・・
年下の人には、威張らず包容力を持って
社会人としての節度(適当なほどあい)をもって接します

律令制度草創の時代
聖徳太子は、官位十二階(かんいじゅうにかい、603年)を制定し
公式に身分と冠が結び付けられました(役人の位や服装を制定しました)
これは、中国の儒教の思想の徳目※を参考にされたものとされています
     (※東洋では儒教(孔子を祖とする教学)によって
       冠をかぶることが文明化した風俗とされました)


その重要なアイテム(項目・品目)の一つに、冠があります
 ・ 束帯(そくたい:礼服をつけ帯をつけること)
 ・ 衣冠(いかん:束帯の略装)

被り物(かぶりもの)には、笠や帽子などがありますが
男性貴族は公的な場に冠・私的な場に烏帽子を
対応する装束と共に使い分けていたといわれています
天皇はその在位中、常に冠を被って過ごしていたそうです
 (日本の冠の直接の祖先は、養老律令(757年)の衣服令(いぶくりょう)にあり
  朝服(文武の官が朝廷に出仕するときに着用する正服・朝衣)の
  被り物「頭巾(ときん)」であるとされています)


一方、被り物は、どの部位を包むかによって、形態や利用の仕方がわかれます
 ・ 顔面を除く頭部(頭の鉢)を包む・巻く方法
 ・ 顔面を包む・覆う方法
 ・ 頭部全体を包む方法

また、かぶりものは
布帛(ふはく:帛は絹織物、布はそれ以外の織物)で作られ
頭部を包む方法は最も原始的な被り物であり
最も単純な構造の被り物としての位置づけです
ここから、冠や烏帽子と言った帽子類が派生したと考えられています


しかしその一方で、現在に至るまですたれる事が無く
単純な被り物であるが故に、多様な被り方が生み出され
多彩な故実や民俗、名称が派生してまいりました
生活習慣や因習などがかたまり
公の場所では「威儀を正す」ことが求められるようになり人々もそれに従いました

             参考に、「 亭主の好きな赤烏帽子 」
                  「 瓜田李下(李下に冠を正す) 」 をご覧ください
今日のことば
708版:平成19年08月03日 金曜日
威儀を正す
山行に見る かぶり物
一緒にいってみたいなこんなとこ
みたいな
山葵の山行まっぷ
印の県に「目的地」があります
県名
岐阜
滋賀
私達が行動の規範とするところに
「礼儀」や「礼節」というのがあります
公序良俗に反したり、奇抜な行為を
することは人々に受け容れられません
そこで、身なりだけでもTPOにあった
格好・所作をおこないます
しかし、表面だけでは何にもならず
「心・技・体」が揃ってはじめて
その人の人格が認められます
他人にとやかく言われる
筋合いのものではないのですが
昨今、この他人にいやな思い、感じを
抱かせる行為が多く、目に余ります
家の形態や色彩、ゴミやペットの問題
お国柄の違いなど原因はいろいろ・・・・
サラリーマンのネクタイが省エネということで
許される時代です、「人の目」も代わり
威儀の正し方も、時の流れで変ります
節度ある姿勢が求められます・・・・
山呼-リスト
※ご参考までに
このコラムは
管理人のひとり言です
黒や灰色の文字は
編集子のオリジナル
カラー文字は編集子所蔵
資料からの引用です
山呼らいぶらり〜
高室山(標高:818m)からの烏帽子岳(標高:865.1m)
    所在地:岐阜県大垣市上石津町、撮影日:2005.05.04、(晴)、烏帽子岳から西南西に7.2km
三国岳三角点峰(標高:815.0m、滋賀/岐阜/三重県境)からの烏帽子岳(標高:865.1m)
    所在地:岐阜県大垣市上石津町、撮影日:2005.05.28、(晴)、烏帽子岳から南西に約2.3km
夜叉ヶ姫岳尾根(標高:1200m付近、福井/岐阜県境)からの烏帽子山(標高:1242.2m)
       所在地:岐阜県揖斐川町、撮影日:2007.07.24、(晴)、烏帽子山から西南西に約5.3km
烏帽子岳
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御池岳
 ↓
三国岳
  ↓
烏帽子岳
   ↓
養老山地
  ↓
時山711m峰
 ↓
養老山地
  ↓
霊仙山系
 ↓
烏帽子山
    ↓
黒壁山
(高丸)
  ↓
三周ヶ岳
コブの頭
  ↓
野郷白山
  ↓
烏帽子岩(えぼしいわ)
巌立(景勝地)の近くにあり
撮影日:2007.02.28、(晴)
所在地:岐阜県下呂市小坂町

由緒書き
昔、小坂町村で飛騨街道を分岐した一本の細い道は、鈴蘭峠を越えて、長峰峠や野麦峠へ通じていて、上方方面から信濃への最短距離でもあったので、多くの旅人が利用した重要な間道でした。その道筋の此処、松原谷付近は、人家からも遠く、鬱蒼とした林が続く、昼間でも寂しい場所でした。
比良山系
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多景島
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磯山登山道からの烏帽子岩俯瞰
烏帽子岩:磯山山麓
撮影日:2007.04.25、(晴)
所在地:滋賀県米原市磯
金糞岳
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小谷山
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山本山
  ↓
磯崎神社前の
琵琶湖岸にある烏帽子岩
伝えによると
日本武尊が坂本(琵琶湖の南)より船で松原(彦根市)に上陸して、伊吹山の賊を討ったが、熱病にかかって居醒の清水(醒ヶ井)で回復したものの磯山近くで亡くなったとされています。墓印として置かれた岩が烏帽子と言われています
  ↑
奥琵琶湖の山々
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山本山
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竹生島
烏帽子岩:左側面
烏帽子岩:正面
烏帽子岩:右側面
琵琶湖東岸から湖北方面を望む
威儀を正すときの正装であった冠、その代表として、烏帽子がよく知られています
立(たて)烏帽子・風折烏帽子・侍烏帽子・引立烏帽子・揉(もみ)烏帽子などがあります
今回は、特に烏帽子にまつわる山行から関連あるスケッチに焦点を当ててみました
冠山(かんむりやま)
撮影日:2002.09.22、(曇)
所在地:福井県/岐阜県境

この山行はガスに
終始つきまとわられました
写真の石碑は「冠山峠」
登山口にあたります
その頃、この辺りに悪賢い古狐が棲みついていて、通行人をたぶらかしては得意がっていました。ある日、一人の老僧が従者を伴って通りがかりました。古狐は、身の丈三メートルもの三ツ目玉の大坊主に化けてゆく手に立ちはだかったのです。しかし、老僧は一向に驚かず、「よくもでっかいものに化けたが、じゃが小さくはなれまい」といってからかいました。怒った古狐は忽ち五、六センチの小坊主に縮んで見せますと、その時、突然老僧は従者の烏帽子をもぎ取って、化けた古狐の小坊主に被せてしまいました。そして、法力によって、大岩に替え、いたずら狐を終生封じ込めんで諸人の難を救ったということです。その後、村人達はこの大岩を烏帽子岩とよぶようになり、古狐と共に永く語り伝えてきたのです。                (飛州志:第七代飛騨国代官、昔書)