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雨壺山 (あまつぼやま)
撮影場所:彦根市西沼波町地区芹川右岸、雨壺山から東に約0.8km
雨壷山の山頂部は、現在水道タンクが林立しています。
雨壺山にたつ標識
「戦国時代、領主平田氏の城がありました。関ヶ原の合戦の直後、石田三成の佐和山城を落とすため、徳川家康、井伊直政の本陣もおかれました。山頂から佐和山や彦根山※が一望できます。」とある※彦根山は、彦根城が立つ山で、別名:金亀山(こんきさん
雨壺山山頂
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平田山城:六角氏と江北軍との合戦の舞台 

岡村館:文永年間、岡世之助居住、中世

沼波館:城主沼波氏、中世

大堀城:大堀弥右衛門屋敷跡、詳細不明、中世

地蔵館:城主地蔵兵太郎、中世
 
          (近江の文化財:安土研究所資料から)
この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)
数値地図25000(地名・公共施設)、数値地図250mメッシュ(標高)、数値地図50mメッシュ(標高)
および基盤地図情報を使用して作成しています。(承認番号 平25情使 第539号)
表示測地系:WGS84、経緯度線@10''(緯線:1間0.3km・経線:1間0.25km、斜め≒0.4km)
平田山城が歴史に登場する事例
#1
淡海温故録」に平田山で永正15年頃(1518年、時期は不明)に矢軍(やいくさ:矢戦)があったとの記録。当事者は六角定頼朝(南近江の戦国大名)と上坂景宗(江北軍)
#2
元亀元年(1570年)に織田信長が磯野為員の甥の磯野員昌が守る佐和山城を攻めたとき、水野信元(徳川家康の伯父)が平田山城に軍を置いて、佐和山城を囲む一端を担ったという説
#3
慶長5年(1600年)、関ヶ原の合戦直後、平田山に家康が本陣を置き、佐和山城の落城を眺め、戦いが終わったあとに山麓にある長久寺で休息
#4
関ヶ原の合戦後、彦根山に彦根城が築かれ、平田城跡は井伊家の狩場となる

中世より佐和山城争奪戦が幾度となく繰り返されてきた中で、平田山城は佐和山城に対する敵陣の砦としての役割を担っていたことが、これらの事例で推測できます
近江の城山-TOP
山聲-TOP
ひらたやまじょう
平田山城
別 名   遺構等 土塁、郭跡
地  域 25znw:彦根東部/南西SW   現 状 山林・公園+支尾根
Mapion 滋賀県彦根市和田町   築城者 不明
標  高 137m/100m=37m   築城年 室町後期、時期不明
訪城日 2010年01月13日(曇・晴)   形 式 平山城
山悠々 雨壺山/大堀山   規 模 山域全体
概要 戦国時代後期に六角と江北軍合戦の舞台として史実に登場、以降佐和山城に対する争奪戦の舞台としてこの地が舞台の一部となる
大堀城
平田山城
岡村館
沼波館
地蔵館
雨壺山
大堀山
亀甲山
平田山城近辺の城郭遺構
西登山道、藪の中に土塁の遺構が散見できます
雨壺山頂上
一等三角点、点名:雨壷山