古城山 (こじょうざん、別名:大岡山)
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撮影場所:滋賀県甲賀市水口町水口橋左岸、古城山から南西に約1.0km
山頂からは水口の町が一望でき、住民の憩いの場になっています
また、春は椿や桜の名所として多くの人でにぎわいます
三の曲輪から四の曲輪を俯瞰
日野町方面の展望が開けています
三の曲輪
空堀からの二の曲輪
空堀からの主曲輪
空堀の南端よりの主曲輪
水口市街北側の古城山(別名:大岡山)は、東海道(現国道1号)を眼下に見下ろし、鈴鹿峠から蒲生一帯を一望することの出来る軍事・交通上要衝の地です。この地形を生かして天正13年(1585)、羽柴(豊臣)秀吉が、この地域を支配させるために、家臣の中村一氏に命じて水口岡山城を築かせました。築城には高島市の大溝城の古材が用いられたと伝えられています。山麓の市街地はこの城下町として整備され、水口の町の原形が出来上がったのはこの頃だといわれています。
天正18年(1590)、徳川家康の関東移封に伴い中村一氏は駿河に転封となったため、増田長盛が入城、その後文禄4年(1595)には長束正家と、いずれも五奉行の一員があてられました。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦に際し、長束正家が西軍に味方し、敗れて帰城後、池田長吉らに攻められて炎上、落城し、長束正家は日野に逃れ、自刃しました。
江戸期の寛永11年(1634)、徳川家康が水口の地に新たに城(将軍家御茶屋御殿)を築き、水口城と称しました。この時、水口城を築城するにあたって岡山城の石垣を石材として利用したとも伝えられています。水口城が築城なった時点で、岡山城は廃城となったと考えられます。
現地案内板(曲輪名称は編集上の仮称)
近江の城山-TOP
山聲-TOP
おかやまじょう
岡山城
別 名 水口古城   遺構等 曲輪、土塁、空堀、堀切、石垣
地  域 25k:水口/北西E   現 状 山林・公園+山頂
Mapion 滋賀県水口町水口   築城者 中村一氏
標  高 283m/180m=103m   築城年 天正13年(1585年)
訪城日 2009年04月07日(晴)   形 式 山城
山悠々 古城山(大岡山)   規 模 東西300mx南北100m 
概要 豊臣秀吉が甲賀郡と蒲生郡の一部を支配させるため中村式部少輔一氏に命じて築城
徳川家康の関東移封に伴い中村一氏は駿河に転封に伴い増田長盛が入城
後、長束正家が城主
関ヶ原合戦で長束正家は西軍に属したため、帰城後池田輝政に攻められ落城
近年、「水口郷土の森」としてハイキングコースや遊具のある広場が整備されましたが、施設が老朽化したようで、現在は使用禁止となった滑り台が、こどもの城の廃墟と化しています
四の曲輪から三の曲輪を見上げます
三の曲輪(左)/堀切/四の曲輪(右)
二の曲輪
今に残る石垣、主曲輪の北西側にあります
五の曲輪側からの主曲輪北側
主曲輪
二の曲輪
三の曲輪
四の曲輪
五の曲輪
石垣が残る
    ↓
空堀
 ↓
堀切
 ↓
江戸時代に、この山は「古城山(しろやま)」と呼ばれるようになり、水口藩の御用林となりました。享保年間には、大岡寺の寂堂法印が、地頭に移転させられていた諸堂を山麓に復興し、山頂に奥の院として小祠を祀りました。これが阿迦之宮の起こりで、現祠は昭和41年に再建されたものです。
その後、阿迦之宮は古城山の守り神、水口町全町民の守り神として、あわせて、悲運の城主長束政家(三代城主)の霊を祀るようになりました。                (現地案内板より抜粋編集)
主曲輪跡にある阿迦之宮の祠