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近江の峠:御斉峠(車道)
二基の石供養塔が建てられ
右側には、「南無阿弥陀仏」、左側には「南無妙法蓮華経」
と刻まれています。
標   題 御斉峠(車道)
山 行 日 平成21年(2009年)02.月08日(晴)
地   域 島ヶ原/北東SW
Mapion 滋賀県甲賀市信楽町/三重県伊賀市
付近状況 舗装道路
撮影場所 舗装道路道
リ ン ク 山悠遊:高旗山
概   要 御斉峠(おとぎとうげ、標高:570m、)は、滋賀県甲賀市信楽町と三重県伊賀市の県境にあり、信楽町六呂川地区と伊賀市西高倉地区をむすぶ位置にあります。位置的に、近江から伊賀へと抜けるルートです。御斎峠の名の由来は、鎌倉時代の高僧が、この峠で村人が接待(斉・とき)したところからと伝えられています。また、本能寺の変の日の翌晩、徳川家康が伊賀者に案内されて危機一髪逃げ延びた間道として有名です。江戸時代に入り、この地を治めた多羅尾の代官所の仕置場(処刑場)が峠の北西約0.5kmの所にあります。古来より、主要幹線ではない峠ではありますが、折に触れ歴史に登場する峠です。
仕置場(処刑場)
徳川家康が天下を統一し、征夷大将軍となり(1603年)、江戸に幕府を置き、その直轄地に代官を置いた折、家康の旗本であった多羅尾光太の子光好が、信楽代官所の初代代官に命ぜられて以来、明治維新まで、世襲代官として代々多羅尾氏が代官を務めてきました。その代官所の処刑場がこの地です。
処刑された日は、12月20日で、牢屋から出された罪人は、裸馬に乗せられこの地で処刑されました。      (現地標識)
道から少し下った所に仕置場があります
↑仕置場
←滋賀県甲賀市
御斉峠→
仕置場の取付道路
ゴルフ場取付道路
↑タラオゴルフ場
←滋賀県甲賀市
御斉峠→
弘法の井戸:全景
弘法の井戸
僧空海(弘法大師)が唐から帰って、真言宗を開きました
(806年)。その後空海は、真言密教の聖地を求めて諸国を巡礼の折、多羅尾の里にこられ、くまなく歩かれた時に、旅人のためにとここに井戸を掘られたと伝えられています。その後、誰が言うこともなしに、村人達はこの井戸を「弘法の井戸」と呼ぶようになりました。なお、この井戸は、どんな日照りでも水は枯れたことがないといわれています。            (現地標識)
本能寺の変で徳川家康が堺・枚方・宇治田原を経て、伊勢へ逃れる際も、多羅尾光俊父子に警護され、この峠を越えたと伝えられています
御斎峠の名の由来は、鎌倉時代に臨済禅の高僧 夢窓国師が、伊賀三田の空鉢山寺へ来られた時、この峠で村人が接待(斉・とき)したところから出ているといわれています
峠の南には、関所の跡があります
御斉峠は標高570m
多羅尾の東方にあたり、滋賀県/・三重県の県境近くです
この峠からの眺望のすばらしさは、古来より語り伝えられ、伊賀地方・奈良金剛の山々が遠望できます
←県境→
尼ヶ岳
  ↓
大洞山
倶留尊山方面
       ↓
青山高原方面
 ↓
山口誓子(やまぐちせいし)句碑
       1901〜1994年、京都市出身、俳人
『 切通し 多羅尾寒風 押し通る 誓子 』
三重県側からの県境
↑峠/滋賀県
三重県伊賀市↓
←県境→
仕置場にある供養塔
↓三重県伊賀市
滋賀県甲賀市↑
峠からの滋賀県側
滋賀県甲賀市↓
滋賀県側からの県境
↑三重県伊賀市
峠/三重県側にある句碑
↑峠/三重県伊賀市/県境
←尾根境
   尾根境→
滋賀県甲賀市↓
↓三重県伊賀市
滋賀県甲賀市↑
県境からの滋賀県側
峠/三重県側の南東側展望
滋賀県側からの御斉峠、県境は峠の東側にあります
弘法の井戸
コンクリートの擁壁で固められています
峠から滋賀県側に0.1kmのところに弘法の井戸があります
←御斉峠
信楽町多羅尾↑