やまだやま | ルート | 山麓P(07:40)〜和泉神社〜尾根出合(08:50) 〜雨森三角点(09:10)〜山田山頂上(10:20) 〜道路出合/峠(11:50/12:25)〜山麓P(13:00) |
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山田山 | シュミレーション | ||
地 域 | 25ns:虎御前山/北西C | 概要 山田山は、旧湖北町の東部地域(町村制施行時は小谷村)にあり、高月町と浅井町におよぶ山域(現在は長浜市)で、小谷山の北方に位置しています。山域規模は、小谷山と同程度で、標高は若干山田山が高く、北尾根は己高山へと続いています。室町時代後期(戦国時代)における覇権争いにより、歴史的にその名が知れている小谷城の攻防で、山田山の西部山域に織田軍が布陣し、朝倉勢の小谷への援軍を阻止、これを足掛かりに浅井包囲網ができあがり、20日後に浅井長政の自刃で織田軍の勝利となった、という顛末(信長公記)に関係する場所です。上山田の和泉神社登山口から入山し、下山は南尾根を選択します。マイナーな山の常として、浅い藪ですが進路を阻止されます。展望はなく、雨森三角点付近で北側が樹間から望める程度です。登山時期としては、下草が覆う4月下旬までが好期で、冬場はクマが出没しますので要注意です。 | |
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滋賀県湖北町上山田 | ||
標 高 | 541m/130m=411m | ||
距 離 | 約90km、斜度:max22゜ | ||
体力度 | 38P、☆☆ | ||
山行日 | 2014.04.25、(晴) | ||
形 態 | 日帰り、1名 | ||
時 間 | 所要05:20/歩行04:15 | ||
アクセス | 自家用車、01:00 | ||
備 考 | 西/南主主尾根浅い藪 |
項 目 |
天正 元年 (1573) |
信長公記、巻六 9、湖上疾る:大船にて高嶋御働き、木戸・田中両城攻めらるる事 10、岩成最後:岩成討ち果され候事 11、決壊:阿閉謀反の事 12、追撃:大筒・丁野攻破らるるの事 13、刀根山合戦:刀根山の戦並に一乗谷攻破るの事 14、朝倉氏滅亡:朝倉義景成敗、越前一国平均に申し付けらるるの事 15、小谷城落城:浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けの事 |
9 | 7月26日 | 織田軍が京から近江国高島に出陣 |
7月下旬 | 織田軍が浅井配下の城を攻略 | |
10 | 8月4日 | 織田軍が岐阜城に帰陣 |
11 | 8月8日 | 織田軍に阿閉貞征(あつじさだゆき、山本山城を守備)が内通 信長は岐阜城から出陣、これにより小谷城は孤立 |
8月9日 | 朝倉軍が安養寺から出陣 | |
8月10日 | 織田軍が山田山に到着 小谷城のそばまで進軍した織田軍は、諸将らを大嶽北方の山田山に配置し越前への主要通路を遮断、信長は近江国高月に布陣 |
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朝倉軍が田上山に到着 義景は、田上山に本陣を構えた |
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浅見対馬が内通 浅井久政は大嶽山麓の焼尾という地に砦を築いて浅見対馬に守らせていたが、この浅見も阿閉貞征にならって信長公へ通じた |
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12 | 8月12日 | 織田軍が大嶽城を攻略 浅見対馬みずからが守る大嶽下の焼尾へ信長公の人数を引き入れた。信長公はみずから馬廻を率いて大雨の中をずぶ濡れになりながら大嶽へ攻め上がった。大嶽には斎藤・小林・西方院らの越前衆五百ばかりが番手として籠っていたが、信長公直々の攻撃の前にたまらず降伏した |
13 | 8月13日 | 織田軍が丁野山城を攻略 朝倉軍が駐留していた丁野山城を陥落 これにより小谷城周辺の朝倉軍の拠点を制圧 |
朝倉軍が田上山から退却 小谷城の救援を中止して越前へ退却を開始 しかし山田山の織田軍は朝倉軍の動きに気がつかなかった |
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織田軍が朝倉軍を追撃 信長は、山田山の織田軍の動きがないのを見ると、自ら兵を率いて朝倉軍を追った。乃根坂で朝倉軍をとらえた織田軍は3000余りの兵を討ち取った |
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13 | 8月15日 | 朝倉義景が朝倉館に帰還 |
8月16日 | 朝倉義景が東雲寺に到着 | |
8月18日 | 織田軍が竜門寺に到着 | |
8月20日 | 朝倉義景が自刃 | |
14 | 8月24日 | 朝倉景鏡は主君義景の首を携えて府中竜門寺へ参上 |
8月25日 | 織田軍が竜門寺から出陣 | |
8月26日 | 織田軍が虎御前山砦に到着 | |
15 | 8月27日 | 織田軍が虎御前山砦から出撃、小谷城への総攻撃を開始、攻略 |
8月28日 | 織田信長が浅井長政に降伏を勧告 | |
浅井長政が降伏を拒否、攻撃が再開。久政が支え切れず自刃 | ||
9月1日 | 浅井長政が自刃し、これにより織田軍の勝利 | |
9月6日 | 羽柴秀吉に小谷城を与え、信長は岐阜城に帰還 |