閑話
万葉の時代、鏡王女(かがみのおおきみ)と額田王(ぬかたのおおきみ)という姉妹がいました。大和郡山の近く、平群郡額田部に本拠をおいていた氏族出身で、母親が近江国(滋賀県)の野洲・蒲生の豪族、鏡王に嫁いで生まれたとされています。当時の慣習(通い婚)で大和の母親の実家で育てられました。やがて成人した姉妹は別々の人生を歩むことになります。姉の鏡王女は中大兄皇子の妃となり、妹の額田王は神祭りの巫女として召し出されますが、やがて弟の大海人皇子(後の天武天皇)の妃となり、十市皇女をもうけます。姉妹で中大兄皇子を共有していた時期もあったと思われます。おおらかな当時のこと、今の結婚観や倫理観でははかれない部分です。(※諸説があるようです)
聖徳太子の死後、蘇我氏が勢力を強めて天皇家を凌ぐほどになってきました。そこで「中大兄皇子」と「中臣鎌足」は「蘇我石川麻呂」を引き入れて飛鳥板葺宮で「入鹿」を殺害しました。時は645年6月、世に言う「大化の改新」のクーデターです。後に石川麻呂も殺され、代わりに中大兄皇子の弟の「大海人皇子」が加わり、改革が進められました。「額田王」はこの若き大海人皇子の妃となったのです。大化の改新後、中大兄皇子は皇太子となりますが、皇位には就かず、政治の実権を握っていました。中大兄皇子の愛は、弟の妃である額田王のほうへとしだいに移っていき、そして、額田王を妻として、鏡王女のほうを、大化の改新で功績のあった臣下の藤原鎌足に譲ってしまいます。
668年に大津に遷都後、中大兄皇子は即位して「天智天皇」となり、同年5月天智天皇は蒲生野(※)に遊猟します。そのときに同行した額田王は、『あかねさす 紫野行き標野行き 野守は見ずや 君が袖振る』という歌を大海人皇子に送ります。野守は、暗に天智天皇をさしているともいわれます。(※滋賀県蒲生町/竜王町/東近江市の一部などの地域)
この歌に対し大海人皇子の答歌は、『紫の にほへる妹を憎くあらば 人妻故に 吾恋ひめやも』だったそうです。
次々と皇位継承者を謀殺してきた天智天皇を恐れ、大海人皇子は吉野に隠遁してしまいます。天智天皇は、長子の大友皇子(後の弘文天皇)を後継者に擁立しました。額田王の娘の十市皇女は、その大友皇子の妃でありました。
しかし天智天皇没後、大海人皇子は大友皇子を討って即位(天武天皇)します。これが世にいう「壬申の乱」です。目を転じると、皇位継承をめぐっての争いの本当の被害者は、鏡王女や額田王などの女性達で、大海人皇子(叔父)の元妻である額田王(母)と、大海人皇子の子どもである十市皇女(娘)の夫、すなわち大友皇子(甥)の戦いという、まさに骨肉の争い(叔父VS甥=配偶者:母VS娘)だったのです。
かがみやま-なるたに |
ルート |
薬師P(10:20)〜鳴谷池(10:50)〜鏡山最高点
〜鏡山三角点(11:50/12:10)〜鏡分岐(12:45)
〜山面登山口〜石部神社〜薬師P(13:40) |
鏡山0602-鳴谷ルート |
シュミレーション |
地 域 |
25e:野洲/北東W |
概要 滋賀湖東の南部地域に位置する鏡山のあるこの地域は、古くから開けた地域の一つです。山名は、天日槍(あめのひぼこ)が新羅から持ってきた八つの宝物のうち、鏡を山中に埋めたことに由来していると伝承されています。薬師地区の住宅地から登り始め、その昔、山中から切り出した石材運搬するために設けられた隧道跡を脇に見ると鳴谷池に出ます。整備された遊歩道をさらに進むと、石仏のある雲冠寺跡に出ると山頂はもうすぐです。山頂は樹林の中にあり、鎌倉時代の初め、佐々木氏が築いた星が崎城があったといわれています。三角点は山頂から西へ0.1kmのところにあり、少し進むと大きな岩があり、その上に立つと西に三上三山の山並みが広がり、さらには比叡山系や湖南アルプスなどが望めます。源義経元服池や、山麓に点在する古墳から鏡が発見されるなど、故事来歴や埋蔵物の多い、歴史の香る里山でもあります。 |
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滋賀県竜王町/野洲町 |
標 高 |
385m/120=265m |
距 離 |
約7.5km、斜度:max24° |
体力度 |
27P、☆ |
山行日 |
2006.02.25、(晴) |
形 態 |
日帰り、2名 |
時 間 |
所要03:20/歩行02:40 |
アクセス |
自家用車、01:10 |
備 考 |
雨天時スリップ注意 |
山面地区にある登山路標識
右は工業団地です
鏡方面下山路(真直ぐ)と山面(やまづら)方面の(右方向)への分岐
この少し山頂よりに雨乞いの「休み場」の標識がありました
山頂に雨乞い祈願のために登山をする際、一同が休んだとされています、先の「竜王宮」が雨の神様とされることによるものです
あえんぼ広場
「あえんぼ」とは地元では
コバノミツバツツジのことで
竜王町の町花だそうです
アエンボ (コバノミツバツツジ)
西日本に多く分布するツツジ科の落葉樹。枝先に行儀良く葉が3枚出るのが特徴。4月から5月頃10本のおしべを持つ可憐な花を咲かせます
山頂下にある竜王宮の鳥居
額には「貴船神社」とありました
竜王宮は、貴船神社とも称され、田畑に水をうるおす雨の神様として、大昔から崇敬されてきました
約1390年前、推古天皇の時代に八大竜王を鎮座されてより、聖徳太子の創建されたと言われる雲冠寺(焼失)の守護神としても崇められてきたと伝えられています
また、町名の語源になったといわれています
(滋賀県学習情報提供システムにおねっと-抜粋編集)
展望台からの眺めです
樹木が遮りほとんど見えません
展望台の手摺には眺望図が
表示されているのですが
ほとんど役に立ちません
展望台が造られたときには
樹木が低かったものとおもわれます
竜王山頂上から少し下がると
展望台があります
三上山
↓
天山
↓
妙光寺山
↓
城山
↓
田中山/旗振山
↓
三角点から西に少し進むと
大きな岩が張り出しています
岩の上に登れます
ここからの眺めは格別です
でも、ちょっとこわいです・・・・
三角点からの眺望です
西側が
かろうじて開けています
右から
三上山、天山、菩提寺山です
竜王山山頂から
西方向に約100mの地点
二等三角点があります
標高:384.6m(地理院地図)
雲冠(観)寺(うんかんじ)跡
598年、聖徳太子の創建
817年、嵯峨天皇の綸旨により伝教大師が再建、山麓にあった法満寺と度々の論争があり、同宗徒によって堂宇は全焼。その後、再建されましたが、織田氏の兵火によって全焼、再建されることなく廃寺になったと言われています。
寺域内には、石仏・古井戸・石垣・石段などが残存しています
(竜王町-抜粋編集)
雲冠寺の石垣と井戸跡
経塚:その昔、この丘陵一帯には、2千戸の家があって大変賑わっていたといわれます。鏡からこの地の薬師までを「箱石山」、南を「牟禮山」と呼ばれ、それぞれに大寺がありました。しかし、双方の中が悪く、僧兵達の争いが絶えず繰り返されたといわれます。この山中にある雲冠寺では、堂宇が焼かれた都度、焼け残りの灰をこの山に運んだといわれます。その中には、経文が沢山あったことから、この山を「経塚」と名づけられたと伝えられています・・・・(標識:竜王町大字薬師区-抜粋編集)
沢が登山道か登山道が沢か・・・・
登山道は上流へと延びています
勾配が緩やかなため、渓谷はありません
「こんめ岩」と呼ばれる巨岩
残念ながら竜王町のhpにも「こんめ岩」の
説明がなく語源がわかりません
色々調べていますと
お手玉のことを「こんめ」といわれるようで
わらべ歌の歌詞にもつかわれています
さらには、方言で小さいことを「こんめえ」
という地方もありますが、これはどうも?
さて、真偽のほどは・・・・
展望岩からの眺望です
霞んでいなければ
比叡山系が
きれいに見えるハズ・・・・
その昔、この山は石が産出されました
大正12年ごろ、山上から運び出すのに
峠になっている所に道をつけましたが
急な坂のため少量しか搬出できません
そこで、隧道をうがち石材を
搬出しやすくされました・・・・(表示板)
上の写真の黒くなっている部分が
その石出し道の隧道跡です
上流の池の造成のために
隧道の土を掘削されたようです
現在では、反対側は土砂で埋まり
通り抜けは出来なくなっています
鳴谷ルート:薬師登山口です
左にある沢にそって進みます
一刀のもとに
切り裂いたような岩もありました
石部(いそへ)神社 祭神:天照皇大神、古くは磯部大明神と称したこともあったようです。境内社には八幡神社と春日神社が合祀されており、毎年4月の祭礼を始め、一年を通して武道上達・五穀豊穣などを祈る弓始め神事、弓納め神事やおんだ祭りなど多くの諸祭礼が行われ、七里の文化・行事を豊かに伝えられています。 (石部神社-抜粋編集)
山面登山口にあるため池、山頂を映しています
鏡山頂上です
別名竜王山とも呼ばれます
標高:384.8mの標識があります
尾根からの北側眺望
前方の山は繖山
左側に延びる低山は安土山
はるか彼方に浮かんでいる山は荒神山です
峠を越えれば鳴谷池です、隧道はこの右にあります
撮影日:2006.02.25
01 ネコヤナギ
02 ネコヤナギ 拡大
山の彩り:2枚
鏡山山中にて
(滋賀県竜王町)
雲冠寺の磨崖佛
鳴谷池、昭和23年頃に造成されたとか
右上に「経塚」と呼ばれる小高い塚があります
経塚↓
「石の広場」と言われる所、沢山の石が露出
歩ッ歩ッ歩:山もゆる、一歩一歩の山あるき
山悠遊-滋賀湖東