歩ッ歩ッ歩:山もゆる、一歩一歩の山あるき
ほっけじあと 概要 法華寺は、神亀3年(726)に行基が薬師如来を本尊として創建した、己高山鶏足寺の別院です。草創期には湖北仏教文化圏の中心寺院のひとつとして栄え、僧坊102宇の大寺院でした。その後伝教大師:最澄が寺坊を修復。宗派:法相宗から天台宗に転宗。小谷城主浅井氏三代の帰依も深く、その後も豊臣秀吉や徳川家の庇護も受け、格式を誇っていたと伝えられています。また石田三成の「三献の茶」の逸話でも知られています。現在は廃寺となり、石段と石垣のみが残り、寺跡は伊波太伎(いわたき)神社となっています。
法華寺跡
地  域 25nn
:近江川合/南西SW
Mapion 滋賀県木之本町古橋
山行日 2015.11.22、(晴)

↑オトチの岩窟/法華寺分岐↑
2015.11.22、町民上げての茶会が催行

↑オトチの岩窟/法華寺分岐↑
撮影:2010.11.16、標識が新しい

法華寺分岐の南側、左側森に入ると古墳

道標:残念なから難読できず

施環(せかん)の滝 詳細はこちらから

林道の紅葉

滝上の紅葉

法華寺参道口

法華寺と石田三成の案内板 

階段参道
法華寺跡
神亀元年(724年)行基が薬師如来を本尊と して創建
その後伝教大師(最澄)が寺坊を修復して
日光、月光菩薩をはじめ十二神将を刻して祀ったと伝えられています
興福寺文書によると、僧房百二宇衆徒五十口 とあり、当時の己高山惣山の院主を務めるなど
己高山七ケ寺の最有力寺院として小谷城主三代 の帰依深く
また豊臣秀吉や徳川家康の庇護を受 け格式を誇っていたと伝えられています
三成が佐和山城主となった時、法華寺は祝儀として出丸の法華丸一棟を寄進しました
法華寺は
母の墓や、過去帳に三成、父の正継、兄正澄、その子の右近の戒名が残っていたそうです
境内には伊波太岐神社が建っているのみです
石垣や石段などが残り、かつて大きな寺院があったことを偲ばせます

階段参道の風情

階段参道の風情

参道の紅葉

三珠院の標柱

石垣

石垣上からの参道俯瞰 

石垣の上に四阿、法華寺跡の案内板 

 伊波太伎(いわたき)神社

鳥居神額「伊波太伎神社」

 伊波太伎神社境内

伊波太伎神社の案内板
伊波太伎(いわたき)神社
創祀年代:不詳。祭神:保食神
式内社・伊波太岐神社に比定されている古社
境内は、行基が開いたという法華寺塔頭三珠院の跡に
明治の神仏分離によって廃寺とされた本堂跡に、本殿と境内社が鎮座しています
相殿に祀られている七所神社は、法華寺の鎮守権現社
開祖:行基の来訪を迎えた2人の翁(熊野、白山権現の化身)と、世代、横山、大音、大宮、二宮の
合わせて七権現を祀ったものらしく、江戸時代には「七所神社」と称しました
明治九年村社に列しています
境内には、境内社らしき石祠が一つ、また昭和初期まで境内社がありました
『式内社調査報告』には、秋葉神社、稲荷神社、高寵(たかおかみ)神社と記されています 

社殿 

境内社 

参道(帰路)

参道口近くにある蹲:湧水を受けています 

参道口(帰路)

丸山墓地入口
200mほど山中に入ったところ

丸山墓地、撮影:2010.11.16
山中にあった墓石を地元の方が 整備

法華寺分岐(帰路)
高台の建物は己高庵

催行されていた茶席で 喫茶去

己高庵からの東側展望、中央森の中に法華寺 
   
法華寺は、「三献の茶」で知られる羽柴秀吉と石田佐吉(後の石田三成)の出会いの地。
豊臣秀吉の奉行として活躍した石田三成は、母が古橋出身であった縁で、9歳の時法華寺三珠院で起居し、修行をしたと言われています。秀吉に仕官するきっかけとなった「三献の茶」の故事も、当地での出来事と伝わっています。豊臣秀吉亡き後、関ヶ原の戦いに敗れた三成は、古橋山中(オトチの岩窟:諸説あり)に逃れましたが、徳川方の追及厳しく、村人に難儀が及ぶのをはばかり、自ら捕縛され、京三条河原で生涯を閉じました。当地では、三成の善政を慕い、代々三成の遺徳が語り継がれています(判官びいきとの見方もあります)。
三献茶の逸話は、三成の気配りぶりがうかがえる、よくできた話だと思います。寺小姓という立場といい、お茶だけで、才能だけで出世したという彼を、おとしめる意図が含まれた話かもしれず、当時の人々の気持ちが解ればいいのですが。
もっとも、編集子の地元である石田三成の居城がある佐和山城下の人々は、勝者:徳川譜代の井伊氏の統治下でありながら、その遺徳をしのばれています。そのためか彦根藩では、石田三成にかかわるものを、徹底的に破却したとも語られています。
尚、「三献の茶」の逸話は、石田三成の出生地である父親の里近く、坂田郡大原在の観音寺にも伝わっています。さりながら、「三献の茶」の逸話自体、江戸時代に作られたものという説もあり、史実とは断定できず、秀吉が三成と出会った寺が、大原観音寺か、法華寺三珠院であるかを論争すること事態には、意味がないとされています。

歴史にうとい編集子は、そうであってほしいと思う反面、基本的に歴史というものは強者の主張にほかならない、と思っています。各事案に諸説あるということは、庶民の強者への反骨精神の現れであって、それぞれに思いがあるから、逸話というものが生まれてくるのだと感じています。
自称「歴女・歴男」たちが、そこにロマンを求める由縁だと思います。

さて、三成に縁が深かった法華寺ですが、関ヶ原敗戦後も特に咎めを受けることもなく、明治維新後の廃仏毀釈以降に無住となり、現在は山中に石垣や石仏に、当時のよすがを残すのみです。
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