探訪記-福井越前
歩ッ歩ッ歩:山もゆる、一歩一歩の山あるき
けひじんぐう 概要 氣比神宮(けひじんぐう※「氣」:常用漢字外、「気」を使用)は、式内社(名神大社)、越前国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。伊奢沙別命(いざさわけのみこと)を主神に七座を祀り、朝廷や国司の崇拝が篤かった。1895年(明治28)宮号宣下により気比神宮と称し、それまでの国幣中社から官幣大社となる。慶長19年(1614)結城秀康による寄進の本殿は、昭和20年(1945)の戦災で焼失、後復興。唯一戦災をまぬかれた大鳥居は、正保2年(1645)の建立で、国の重要文化財。
気比神宮
地  域 18s:敦賀/北東NW
Mapion 福井県敦賀市
山行日 2015.05.27、(晴)
敦賀は天然の良港を有するとともに、北陸道諸国から畿内への入り口であり、対外的にも朝鮮半島・中国東北部への玄関口にあたる要衝です。神宮はそのような立地であることから、「北陸道総鎮守」と称されて朝廷から特に重視され優遇された神社でした。

『古事記』『日本書紀』では、早い時期に神宮についての記事が見えますが、特に、仲哀天皇(第14代)・神功皇后・応神天皇(第15代)との関連が深く、古代史において重要な役割を担っていました。7世紀後半頃に、気比神の祭祀権が在地豪族から朝廷の手に移ったと推測されています。中世には越前国の一宮に位置づけられ、福井県から遠くは新潟県まで及ぶ諸所に、多くの社領を有していました。
鎌倉時代後期には、足利尊氏挙兵に際し、後醍醐天皇の二皇子を擁した新田義貞を「金ヶ崎城」に迎え、気比神社の宮司が共に戦い、破れました。この時、神社は24万石相当の富を有していたものと考えられています。ちなみに、江戸時代末期の福井藩は32万石、福井県の27年度当初予算は4,500億円ですから、当時の神社は絶大な力を持っていたと考えられます。

戦国時代には、織田信長の朝倉侵攻により社殿を消失、衰退しました。
江戸時代には、結城秀康などからの寄進により再興がなり、さらに有力者からの奉納を受けましたが、かつての繁栄は見られなくなっていきました。

社殿などほとんどの建物は、第二次世界大戦中の空襲で焼失したため、現在の主要社殿は戦後の再建になります。しかし、空襲を免れた大鳥居は、「日本三大鳥居(広島の厳島神社、奈良の春日大社、福井の気比神社)」にも数えられる壮麗な朱塗鳥居であり、国の重要文化財に指定されています。また境内社の角鹿(つぬが)神社は、「敦賀」の地名発祥地であると伝えられています。
境内には、他に
旗掲松(はたかけのまつ、南北朝時代の戦いに際し勝利を祈願して旗を掲げた松)
長命水(開創以来、湧き続け、無病息災、長命に効能ありと信じられてきた霊験あらたかな水)
芭蕉句碑、などがあります。
                                             (wikipedia 抜粋編集)

拝殿左正面
クリックで拡大
大鳥居遠景
大鳥居から敦賀市街、正面(南側)の山は岩籠山
気比神社東参道
境内東側駐車場から北側に天筒山を望む
大神下前(おおかみしもさき)神社、兒宮(このみや)、角鹿(つぬが)神社
角鹿(つぬが)神社
九社之宮、神明両宮
九社之宮、神明両宮
拝殿前灯篭
欄間彫刻
束と蟇股
虹梁木鼻
破風飾り金物、懸魚彫刻
拝殿西側側面、右奥に神門背面
拝殿右正面
拝殿正面
神門の詳細はこちら
神門、両袖回廊
中の鳥居背面
中の鳥居正面
中の鳥居左正面
ユーカリの木(市指定の天然記念物)
「旗掲松」、南北朝にちなむ松の二代目
吐水口
手水舎
「長命水」亀の吐水口、これを目当てに神宮を訪れる人もいるとか・・・・、吐水口詳細はこちらから
境内参道
末社鳥居
鳥居前太鼓橋、堀の犬走り
大鳥居控柱
大鳥居扁額「氣比神社」
大鳥居(重文)
向拝唐破風
山聲-TOP