山悠遊-石川金沢
歩ッ歩ッ歩:山もゆる、一歩一歩の山あるき
かなざわ-けんろくえん |
ルート |
米原(06:50)〜金沢駅(09:15)〜路線バス(09:40)
〜兼六園(09:50)〜金沢城公園(11:40) 〜徒歩(12:40)〜金沢駅(13:20/13:50)〜米原(15:50 |
金沢-兼六園 |
地 域 |
17:金沢/北西C |
概要 兼六園は、金沢市にある日本庭園で国の特別名勝に指定されています。広さは約11.7ha(約0.3x0.4km)。江戸中期、延宝4年(1676)に、加賀藩により金沢城の外郭東側に造営された藩庭を起源とする池泉回遊式庭園です。岡山市後楽園と水戸市偕楽園と並び、日本三名園の一つに数えられています。兼六園の名は、松平定信(江戸中期の大老、陸奥白河藩主、徳川吉宗の孫)が『洛陽名園記』を引用して、宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望の6つの景観を兼ね備えていることから命名したといわれています。四季それぞれに趣が深く、季節ごとに様々な表情を見せていますが、特に雪に備えて行われる雪吊は冬の風物詩となっています。石川県内でも随一の桜・梅・紅葉の名所です。金沢市の中心部に位置し、周辺には成巽閣、石川県立美術館、金沢21世紀美術館などの観光地があり、道路(百間堀通り)を隔てて、橋一本で金沢城公園とも繋がっています。 |
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石川県金沢市兼六町 |
標 高 |
60m/40m=20m |
距 離 |
約―km、斜度:max―゜ |
体力度 |
―P、☆ |
山行日 |
2016.07.23、(晴) |
形 態 |
日帰り、1名 |
時 間 |
所要01:50/歩行― |
アクセス |
公共交通、03:00 |
備 考 |
特に支障なし |
兼六園内にて
(石川県金沢市)
山麓の彩り:04種/08枚
撮影日:2016.07.23
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霞ヶ池、中央奥に唐崎松、中右に蓬莱島
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霞ヶ池、中央奥に徽軫(ことじ)灯籠
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七福神山
龍 石
氷室跡
兼六園巽用水採水場、沈砂池
巽用水
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霞ヶ池に浮かぶ蓬莱島
時雨亭
霞ヶ池
船之御亭(ふなのおちん)
山崎山御亭、扁額『自然楽』
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芭蕉句碑『 あかあかと 日は難面(つれなく)も 秋の風 』
雁行橋(がんこうばし)

月見橋 |

花見橋 |

桂坂近くの橋 |

山崎山下の橋 |

梅林内の橋 |

梅林内の橋 |

飛び石 |

雁行橋 |

雪見橋:七福神山脇 |

梅林の石橋 |

結界と留石:時雨亭脇 |

虹橋:徽軫灯籠脇 |
明治記念の標、日本武尊の像

蠑螺山山頂石塔 |

蠑螺山山頂石塔基壇 |

内橋亭手水鉢 |

伯牙断琴の手水鉢 |
栄螺(さざえ)山、山頂に御亭(おちん)を配しています
梅林の巨木
夕顔亭:園内最古の建物
延宝元年(1676):加賀藩4代藩主の前田綱紀
金沢城に面する傾斜地にあった藩の御作事所を城内に移し
その跡地に自らの別荘である「蓮池御殿(れんちごてん)」を建て
その周りを庭園化したのが兼六園の始まりです。
庭は当時、蓮池庭(れんちてい)と呼ばれ
歴代藩主や重臣らが観楓の宴などをする場として使われていたました
宝暦09年(1759):4月10日に発生した宝暦の大火で焼失しました
安永03年(1774):10代藩主前田治脩によって蓮池庭が再興
同年に翠滝と夕顔亭、安永5年(1776)には内橋亭を造り、庭園が整備されました
蓮池庭上部にある平坦な場所で
当時は空き地となっていた千歳台に藩校の明倫堂と経武館を建設
文政02年(1849):11代藩主の前田斉広は、37歳の若さで隠居を表明
千歳台で自身の隠居所の建設を始め、藩校は別の場所に移設
文政05年(1822):建坪4000坪・部屋数200を超える隠居所「竹沢御殿(たけざわごてん)」を完成
この年に白河楽翁(松平定信)によって兼六園と命名
嘉永04年(1851):斉広の死後、竹沢御殿は12代藩主前田斉泰によって取り壊される
天保08年(1837):斉泰は、霞ヶ池を掘り広げたり
栄螺山を築いたり、姿形の良い木を植えるなどして庭を拡張・整備
万延元年(1860):蓮池庭との間にあった塀を取り壊して、現在の形に近い庭園を築きました
文久03年(1863):成巽閣(せいそんかく)が完成
昭和60年(1985):3月20日、特別名勝に指定
(wikipedia抜粋編集)
霞ヶ池、中央に内橋亭
瓢(ひさご)池、中央奥に翠(みどり)滝、右は海石塔
鶺鴒(せきれい)島
瓢(ひさご)池
桂坂入口標柱『兼六園』
案内板
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