さいぐうれきしはくぶつかん ルート 斎宮歴史博物館(09:50/10:50)
斎宮歴史博物館
地  域 24:松阪/北東SE 概要 斎宮歴史博物館は、斎宮遺跡(国の指定)に設置されている三重県立の博物館です。テーマ博物館であると同時に、埋蔵文化財センターとしての機能を有しています。伊勢斎宮の遺跡は、南北朝期(1336-1367)以降荒廃し、その遺跡も不明でしたが、昭和45年(1970)頃からの宅地造成に伴い、明和町古里地区に斎宮遺跡の存在することが明らかとなり、昭和54年(1979)には国の史跡指定を受けました。これを受け、三重県も斎宮跡発掘調査事務所を開設して、本格的な調査発掘と保存に乗り出し、昭和58年(1983)には史跡公園「斎宮跡」が開園しました。昭和60年(1985)には、斎宮跡に県立博物館を設置することが発案され、教育委員会傘下で建設準備が進み、平成元年(1989)に開館しました。博物館予定地自体が遺跡であるため、慎重な発掘調査を経て、建物を支持する杭の施工をしないなど、特別な配慮がなされました。
Mapion 三重県多気郡和町竹川
標  高 14m/11m=03m
距  離
体力度 ―、Θ
山行日 2024.06.12、(晴)
形  態 前泊、3名
時  間 所要01:00/歩行00:20
アクセス 自家用車、03:00
備  考 特に問題なし
斎宮歴史博物館外観(パノラマ)、※写真クリックで拡大
「斎宮跡」案内板、※写真クリックで拡大
「古墳公園案内図」案内板、※写真クリックで拡大
企画展パンフレット「斎王の食事」パンフレット-1/2
斎宮歴史博物館周辺地図
斎宮歴史博物館拝観パンフレット-1/6
斎宮歴史博物館拝観パンフレットより
拝観券
観光パンフレット
斎宮跡周辺案内図
斎宮歴史博物館拝観パンフレット-1/6
斎宮歴史博物館拝観パンフレット-2/6
斎王(さいおう)または斎皇女(いつきのみこ)は、伊勢神宮または賀茂神社に巫女として奉仕した未婚の内親王(親王宣下を受けた天皇の皇女)または女王(親王宣下を受けていない天皇の皇女、あるいは親王の王女)。厳密には、内親王の場合は「斎内親王」、女王の場合は「斎女王」といわれましたが、両者を総称して「斎王」と呼ばれています。
斎宮(さいくう/さいぐう/いつきのみや/いわいのみや)は、日本の古代から南北朝時代にかけて、伊勢神宮に奉仕した斎王の御所(現在の斎宮跡)で、平安時代以降は賀茂神社の斎王(斎院)と区別するため、斎王のことも指した。後者は伊勢斎王や伊勢斎宮とも称されました。

伊勢神宮の斎王は特に斎宮(さいぐう)、賀茂神社の斎王は特に斎院(さいいん)とも呼ばれました。斎宮の歴史は古く、『日本書紀』によれば崇神朝にその嚆矢が認められますが、制度的に整ったものが確認できるのは上代の天武朝からで、源平合戦(治承・寿永の乱)で一時的に途絶してからは鎌倉時代を通じて徐々に衰退し、建武新政の崩壊をもって断絶するに至りまし。斎院は、平安時代初期の嵯峨朝に始まり、鎌倉時代に入っても継続していましたが、承久の乱後の混乱の中で、やはり断絶しました。伊勢では幕末に、津藩主藤堂高猷が再興を主張しましたが、成りませんでした。
塚山2号墳
斎宮跡(さいくうあと、さいぐうあと)は、三重県多気郡明和町にある斎宮寮の遺跡です。斎宮寮とは、伊勢神宮の祭祀を行うために、皇室から派遣された斎宮が執務した場所であり、斎宮は、天皇の代替わり毎に交替し、南北朝時代まで続いたとされています。斎宮跡は、伊勢神宮から約15km離れていて、都と伊勢神宮を結ぶ伊勢道のルート上に位置しています。
外周施設が、東西1.5kmにわたる大きな溝が史跡の北端となり、東西のそれぞれの端で南北の溝に接続しています。飛鳥・奈良時代から南北朝時代にわたる遺跡であり、史跡西方(古里・中垣内地区)には奈良時代の遺跡、東方には平安時代の遺構が発見されています。また、鎌倉時代の遺構は、奈良時代と同じ古里地区と史跡東北部に溝や井戸が発見されています。特に、平安時代の遺構には、南北に4つ、東西に7つに区画された約120mの方格地割があり、その内部に、南北の方位に整然と配置された大型の掘立柱建造物が発見されており、その中心部が内院であると推定され、第1種保存地区に指定されています。
出土遺物は、土製の飾馬、三彩陶器、緑釉陶器以外に、土師器や水司、膳司、殿司など役所名を墨書した土器も発見されていて、遺物は、古里地区の「斎宮歴史博物館」に収蔵、展示されています。
「周辺案内」案内板、写真クリックで拡大
企画展パンフレット「斎王の食事」パンフレット-1/2
山聲-TOP
斎宮歴史博物館拝観パンフレット-5/6
斎宮歴史博物館拝観パンフレット-4/6
斎宮歴史博物館拝観パンフレット-3/6
旅悠遊-三重中部
歩ッ歩ッ歩:山もゆる、一歩一歩の山あるき