あらいのせきあと ルート 新居関跡(12:40/13:10)
新居関跡
地  域 22wh:新居町/南西E 概要 新居関所は、江戸時代の東海道の関所の一つです。正式名称:今切関所(いまきりせきしょ)。五街道のなかでも最も往来の多かった東海道に設けられ、舞坂宿(浜松市)と新居宿(湖西市)の間にあります。浜名湖西岸の今切口に面した標高:約2mの低地に立地し、新居宿に隣接し、浜名湖口に面していました。明治2年(1869)の関所廃止後も、小学校校舎・旧新居町役場として利用され、面番所などの建物が残されました。主要街道の関所建物としては、唯一現存する建物です。現在、浜名湖の埋立てのため、新居関所及び今切口周辺の地形が当時とは大きく変化しています。新居関所は、「新居関跡」として、国の特別史跡に指定されました。箱根関所小仏関所などでは建物が失われており、主要街道の関所建物としては、唯一の遺存例としてきわめて重要であるとして、現在地に保存・公開展示されています。隣接地に新居関所史料館。
Mapion 静岡県湖西市新居町
標  高 03m/02m=01m
距  離
体力度 ―、Θ
山行日 2024.11.22、(晴)
形  態 前泊、3名
時  間 所要00:30/歩行00:10
アクセス 自家用車、03:00
備  考 特に支障なし
拝観入場券
拝観パンフレット-4/6、※写真クリックで拡大表示
拝観パンフレット-3/6
拝観パンフレット-2/6
拝観パンフレット-1/6
面番所東面
拝観パンフレット
面番所北面
面番所北東面
女改之長屋正面
女改之長屋右正面
「船会所」案内板、未整備、※写真クリックで拡大表示
大御門右背面(高麗門)
大御門背面(高麗門)
「覚」高札、写真クリックで拡大表示
大石(荷物石)、高札、石樋
「石樋」案内板、※写真クリックで拡大表示
「炭太祇(たんたいぎ)句碑」案内板、※写真クリックで拡大表示
『 木戸しまる 音やあら井の 夕千鳥 太祇 』
炭太祇(たんたいぎ)句碑、※写真クリックで拡大表示
面番所東面
新居関跡入口
「特別史跡 新居関跡」案内板、※写真クリックで拡大表示
背景と地名、関所の設置と管理
当地は、浜名川の浜名橋に橋本があり、東海道が交差した港湾都市でありました。鎌倉時代には、東海道の要衝として宿が置かれ、応永9年(1402)には足利義満により橋本、天龍、大井、富士河、木瀬河は、今川泰範を「奉行職」として管理されていました。明応7年(1498)に、明応地震が起こり、遠州灘沿岸は津波に襲われ、浜名湖開口部が沈下し、今切口が決壊して、湖に海水が流入し、浜名湖は塩水湖となりました。また、明応地震により橋本は壊滅し、住民は今切・新居地区(荒井)に移転しました。また、翌明応8年(1499)の暴風雨・大洪水によって湖口は破壊の度合いを増しました。そのため、浜名湖の今切口を通過するための舞坂ー新居間を結ぶ渡船の今切の渡しが置かれました。

新居関所の創設は、江戸幕府設置前の慶長5年(1600)と伝えられます。開府時に、新居付近は幕領となり、新居(今切)関所は、幕府から派遣された新居奉行が管理しました。元禄15年(1702)、三河吉田藩(愛知県豊橋市)の藩主久世重之が自預五万石の内五千石を、幕領であった新居付近と交換し関所の管理が命ぜられ、以後今切関所は幕府直轄から吉田城主に移りました。
拝観パンフレット-6/6
拝観パンフレット-5/6
「土蔵」案内板、未整備、※写真クリックで拡大表示
「女改之長屋・裏御門(復元)」案内板、※写真クリックで拡大表示
女改之長屋左正面
石樋
「大石(荷物石)」案内板、※写真クリックで拡大表示
大石(荷物石)
「面番所」案内板、※写真クリックで拡大表示
面番所東南面
山聲-TOP
旅悠遊-静岡浜松
歩ッ歩ッ歩:山もゆる、一歩一歩の山あるき