いわむらじょうし |
ルート |
岩村城址(10:15/11:25) |
岩村城址 |
地 域 |
21e:岩村/南東W |
概要 岩村城は、別名:霧ヶ城、城郭構造:梯格式山城、天守構造:なし、築城主:遠山景朝、築城年:承久3年(1221・鎌倉中期)、主な改修者:河尻秀隆・各務元正、主な城主:遠山氏・森氏・大給平氏・丹羽氏、廃城年:明治4年(1871)、遺構:石垣・郭・井戸。大和の高取城(奈良県)、備中の松山城(岡山県)と並ぶ日本三大山城の一つです。城は、江戸諸藩の府城の中でも最も高い所(標高:717m)に築かれ、高低差:180mの天嶮の地形を巧みに利用した要害堅固な山城で、霧の湧き易い気象までも城造りに活かされており、別名「霧ケ城」とも呼ばれています。この城が名城と言われる由縁は、単にその規模と大きさだけでなく、その永い歴史に由来しています。文治元年(1185)、源頼朝の重臣「加藤景廉(かとうかげかど)」がこの地の地頭に補せられ創築されてから、鎌倉・室町・戦国時代・江戸期の700年間にわたり、城と城主が連綿と続きました。 |
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岐阜県恵那市岩村町 |
標 高 |
713m/704m=09m |
距 離 |
― |
体力度 |
―、☆ |
山行日 |
2025.03.14、(晴) |
形 態 |
前泊、3名 |
時 間 |
所要01:10/歩行00:30 |
アクセス |
自家用車、02:15 |
備 考 |
非常狭い道路約0.3km |
出丸から本丸南側石垣
埋門枡形石垣
埋門
「埋門」案内板、※写真クリックで拡大表示
「岩村城跡」案内板、※写真クリックで拡大表示
昇龍の井戸
長局から東曲輪俯瞰
長局からの北東側展望
長局埋門
東曲輪からの六段壁
六段壁
「八幡神社」案内板、※写真クリックで拡大表示
八幡社石垣
「霧ヶ井」案内板、※写真クリックで拡大表示
霧ヶ井
大手門過ぎの曲輪
女城主といえば井伊直虎が有名ですが、恵那市の岩村城には、戦国時代に波乱の人生を送った女城主「おつや」の逸話が残ります。
元亀3年(1572)、城主の遠山景任(かげとう)が病死。信長の叔母とされる夫人が「当主」となりました。織田信長の叔母であるおつやは聡明(そうめい)で美しく、領民から慕われていました。信長は、当主不在の城に、五男御坊丸(後の勝長)を養子として送り込み、武田方だった城の乗っ取りに成功。それもつかの間、同年秋、上洛をめざし行動を開始した武田信玄の別動隊、秋山虎繁によって包囲されました。秋山虎繁は密使を送り、自分が夫人と結婚し、そのうえで御坊丸に家督を譲るとの条件で無血入城しました。(兵の命を救うためか、家臣団の圧力に屈したのか。なぜ、2人が結婚という形式をとったのかは定かでない)。しかし、御坊丸は人質として甲斐(山梨県)へ。信長は激怒し、岩村城奪還の兵をあげましたが、逆に攻撃を受け退き、東濃での武田優位の情勢が続きました。
潮目が変わるのは長篠・設楽原合戦で武田の力が衰えた後。天正3年(1575)、信長は嫡男信忠を総大将にして大軍を差し向けました。信忠軍は約半年間、城を包囲。援軍が来ないまま、秋山は城兵の助命を条件に城を明け渡します。しかし、信長は約束を果たしませんでした。残された城兵も「残党悉(ことごと)く焼き殺しになされ候」、夫人の最後は磔刑(たっけい)に処せられたと伝えられています。しかし、夫人の最期は本当の所、謎のようです。
岩村城跡さんぽコースMAP(東濃森林管理署より)
出丸北側展望
桜井門から本丸西側石垣
埋門
埋門枡形
埋門枡形
埋門石垣
長局埋門
本丸から北東側展望
本丸から北東側展望
「本丸」案内板、※写真クリックで拡大表示
本丸から長局への枡形
「織田信長公宿営の地」案内板、※写真クリックで拡大表示
長局埋門
「長局埋門」案内板、※写真クリックで拡大表示
東曲輪からの本丸
廊下門への石段、奥:六段壁
手前:東曲輪、奥:六段壁
東曲輪石垣、廊下門への階段、手前:六段壁
「六段壁」案内板、※写真クリックで拡大表示
本丸六段壁
本丸六段壁
二の丸から本丸石垣北側
「菱櫓と俄(にわか)坂」案内板、※写真クリックで拡大表示
八幡社石垣
八幡社石垣
八幡社石垣
左:八幡曲輪石垣、右:五郎作屋敷石垣
左:八幡曲輪石垣、右:五郎作屋敷石垣
左:八幡曲輪石垣、右:五郎作屋敷石垣
本丸北側石垣、※ここから大手門へと降る
埋門を右横にして
出丸からの本丸南西側石垣
出丸からの北西側展望
「出丸」案内板、※写真クリックで拡大表示
「岩村城跡案内図」案内板、※写真クリックで拡大表示
旅悠遊-岐阜東濃
歩ッ歩ッ歩:山もゆる、一歩一歩の山あるき
「霧ヶ井」案内板、※写真クリックで拡大表示