歩ッ歩ッ歩:山もゆる、一歩一歩の山あるき
まるおかじょうし |
ルート |
駐車場(10:40)〜丸岡城址(10:50/11:50)
〜歴史資料館(12:00〜12:20)〜駐車場(12:30) |
丸岡城址 |
地 域 |
18n:丸岡/北西NW |
概要 丸岡城は、丸岡市街地東部に位置する、小高い独立丘陵に築かれた平山城で、別名:霞ヶ城。江戸時代には、丸岡藩の藩庁でした。現在は、安土桃山時代に建造されたと推定される天守(重文)のみ残ります。近世に、山麓部分が増築され、周囲に五角形の内堀(現在埋立)が廻らされていました。大入母屋の上に廻り縁のある小さな望楼を載せた古式の外観から、日本全国に現存する最古の天守とも呼ばれています。現在の天守は、昭和23年(1948)の福井地震によって倒壊した後、昭和30年(1955)に部材を組みなおして修復再建されたのです。その際、最上階の窓の造りが引き戸から突き上げ窓(蔀戸)に改変されています。独立式望楼型2重3階で、1階平面を天守台に余分を持たせて造られているため天守台を被せるような腰屋根が掛けられている。屋根瓦には笏谷石(しゃくだにいし、凝灰岩の一種)製の石瓦が葺かれています。 |
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福井県丸岡町霞町 |
標 高 |
27m/10m=17m |
距 離 |
約―km、斜度:max―゜ |
体力度 |
―P、☆ |
山行日 |
2017.05.09、(曇) |
形 態 |
前泊、2名 |
時 間 |
所要01:00/歩行― |
アクセス |
自家用車、01:50 |
備 考 |
特に支障なし |
2層目東側破風懸魚裏面
1層目屋根東面南側
天守3層目 西側展望パノラマ
天守3層目 南側展望パノラマ
天守3層目 北側展望パノラマ
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『 一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥せ 』
出窓
出窓見上げ
破風見上げ
天守2・3層
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現存12天守
戦後の1940年代に、20ヶ所の天守が存在していましたが、内8ヶ所の天守が焼失させられたため、現在は12か所の天守が現存しています。現存天守は、必ずしも創建当時の建物をそのまま保存されているものということではなく、以下の異なる経緯により、保存されています
修復などを繰り返しつつ、ほぼ創建当時のままを維持してきたもの(姫路城・彦根城)
現存天守が在籍していた城が存城であった当時に再建、改築されたものがほぼそのまま残っているもの(犬山城・松本城・高知城・松江城など)
付属する一部の建物を焼失または改築されたもの(宇和島城)
明治維新以降に保存されるまでの経緯で付属する建物を撤去、または損失したことにより主に主体のみが保存されることになったもの(備中松山城・松山城・弘前城・丸亀城など)
損失したが遺材を組み直して再建されたもの(丸岡城) (wikipedia 抜粋編集)
丸岡城沿革
天正14年(1576) 織田信長の家臣で、越前ほぼ一帯を領していた柴田勝家の甥である勝豊により築城され、勝豊はそれまでの豊原寺城から当城に移った。
天正18年(1582) 本能寺の変の後の清洲会議により、勝豊は近江国長浜城に移された。代わって勝家は安井家清を城代として置いた。
天正11年(1583) 柴田勝家が豊臣秀吉によって北ノ庄城で滅ぼされると、この地は丹羽長秀の所領となり、長秀は丸岡城主として青山宗勝(修理亮)を置いた。
慶長5年(1600) 丹羽長秀死後、領地はそのままに豊臣秀吉の家臣となっていた青山宗勝とその子・忠元は、関ヶ原の戦いで敗者である西軍方につき改易された。越前国には勝者の徳川家康の次男・結城秀康が入封し、丸岡城には秀康家臣の今村盛次が2万6千石を与えられ入城した。
慶長17年(1612) 今村盛次は越前騒動に連座し失脚した。幕府より附家老として福井藩に附せられた本多成重(本多作左衛門の重次の嫡子)が4万3千石で新たな城主となった。
寛永元年(1624) 福井藩2代目の松平忠直が、不行跡を理由に豊後配流となり、福井藩に減封などの処分が下された。同時に本多成重は福井藩より独立。大名に列し丸岡藩が成立した。
元禄8年(1695)、 4代本多重益の治世、本多家の丸岡藩でお家騒動が起こり、幕府の裁定により改易となった。代わって有馬清純が越後国糸魚川藩より5万石で入城。
以後、有馬氏丸岡藩6代の居城となり明治維新を迎えた。 (wikipedia 抜粋編集)
1層目屋根東面北側
1層目屋根
天守3層目 東側展望パノラマ
石製しゃち
天守台石垣
天守台石垣
天守台石垣
天守台と天主閣1層目
天守閣東面見上げ
天守北面
天守台階段
天守2・3層
天守閣
天守近景
牛ヶ島石棺
丸岡城天守閣説明石碑
丸岡城
丸岡城遠景
天守
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山悠遊-福井県