余談:07 【居醒の名水(いさめのめいすい)】
毒気にあたって、伊吹山から命からがら麓にたどり着いた日本武尊は、清水を飲んで
体を休めたところ、清水の効果は大きく、高熱が冷めたという話が伝わっています
米原市大清水の「泉神社の清水」や醒ヶ井に「居醒の清水」があります
醒ヶ井はその昔、中山道を往来した人たちの休憩所でもありました
日本武尊が傷をいやしたことから「居醒
(いざめ)の清水」と呼ばれ、醒井(さめがい)という地名も
この話が元になったと言われています。


余談:8 【本多正信(ほんだまさのぶ)名言の編集子風解釈】       ( 2006.09.17 追記 )
天文7年(1538)-元和2年(1616)、徳川家康の参謀徳川の知恵袋と評される、長男に本多正純

本多正信:壁書十箇状 (出典:新人物往来者:名言名句集)

  本稿公開後、読者の方より文章の内容が難しくて理解できないとのご連絡を頂きました
  知識不足ではありますが、編集子風に翻訳してみましたので、ご一読願います
  なお、ご批判はあろうと思いますが、独断と偏見で作成していますのでご理解をお願いします

・ 淫酒(いんしゅ)は早生(わせ)の地形(じぎょう:じがため)
  
酒びたりになっていると、仕事は早いが雑に済ますことになり、完全なものが出来上がらない
  建物を建てる地盤の地固めを充分にすることができず建物が傾くことになりかねない


・ 堪忍は身を立つるの
  
こらえて我慢することは、度量が大きいと他人に認められ、出世の糸口ともなる、ひいては
  建物の耐力的な軸となる壁を、堅固にすることにつながり丈夫な建物を建てることになる


・ 苦労は栄華の(いしずえ:建物の基礎となるもの)
  
労苦をおしまず働くことは、屋台骨を確実なものとすることにつながり、家の繁栄につながる
  すなわち、建物の土台をささえる基礎がしっかりできていれば、建物は磐石である

  
・、倹約は君につかふるの材木
  
無駄使いをせず節約していると、人に奉仕するときに充分なことができる、ひいては
  家を建てるときの資材が、より良い品物がより多く手に入り、立派な建物の完成に結びつく


・ 珍膳珍味は貧の
  
めずらしい料理や味のよい食物をふんだん取っていると、体の機能が充分に果たせなくなる
  建物の柱も、温暖な地方で急に成長するものは強度も弱く、柱の材料として劣り相応しくない


・ 多言慮外は身を亡ぼすの根太
  
秘密などを他人に漏らしたり、思いのほかのことをいう無礼な態度は信用も失い身を亡ぼす
  床を支える根太が曲がっているなど、持っている品質が悪ければ、床は傾き物も転がる


・ 人情は家を作るの
  
他人に対する慈しみや情けがある人の回りには、自然と人が集まり、家の繁栄につながる
  畳はそんな人が集まる場所であり、素敵な憩いの場所が出来上がる


・ 法度は僕
(しもべ)をつかふの屋根
  
法律は、人に対する社会秩序維持の規範であり、しきたりになっているものです
  屋根には雨露を防ぐという機能があり、これが維持されない建物は何の役にもたたない


・ 華麗は借金の板敷(いたじき:屋内の板を敷いた所)
  
華やかで美しいことや身分不相応なことを望んでいると、借金の額がかさみ返済に苦労する
  分不相応な贅沢普請は、借金を床に敷いたもの(板敷)に同じこと、身の丈にあった家創りを


・ 我儘は朋友に憎まれるるの障子
  
相手や周囲の事情を顧みず気ままや自分勝手にしていると、友達にも見放されてしまいます
  お互いの間に仕切り(建具:障子や戸)が立てられてしまい、人も寄り付かない家では大変


  右十箇状常に忘るべからずのものなり

  以上十か状の教えをいつも心にかけ、忘れないようにしなさい  
余談:02 【揚羽蝶と臣籍降下の接点
昭和天皇の第四皇女でいらした厚子様(元順宮厚子内親王)は、池田隆政氏とご結婚され臣籍降下されました。夫の隆政氏は、現在樺r田動物園の園長(社長)。旧備前岡山藩主の家系で父の池田宣政氏は侯爵(十四代目当主)

余談:03 【大江山の酒呑童子
酒呑童子(しゅてんどうじ)は、出生年不詳、越後の国に産まれ、丹波国の大江山、または近江国の伊吹山に住んでいたとされ、鬼の頭領(盗賊)であったともいわれています

越後国の酒呑童子出生伝説
美少年(イケメン)であったため、多くの女性に恋されたが
女性たちから貰った恋文を焼いてしまったところ、想いを告げられなかった女性の恨みによって
恋文を燃やしたときに出た煙にまかれ、鬼になったという
そして鬼となった彼は、本州を中心に各地の山々を転々とした後に大江山に棲みついたという
室町時代の物語を集めた『御伽草子』などによると
酒呑童子の姿は、顔は薄赤く、髪は短くて乱れ、背丈が6m以上で角が5本、目が15個もあり
彼が本拠とした大江山では龍宮のような御殿に棲み、数多くの鬼達を部下にしていたとか・・・・


伊吹山の酒呑童子出生伝説
伊吹山山麓でスサノオと戦い敗れた大蛇の八岐大蛇(やまたのおろち)は出雲に逃げ
そこで人間の娘との間で生まれた子どもが、酒呑童子だと伝えられている
若くして比叡山に稚児として入って修行することとなったが、仏法で禁じられている飲酒をし
しかも大酒呑みであったために皆から嫌われていた
ある日、祭礼の時に被った仮装用の鬼の面が、祭礼が終了して彼が取り外そうとしたが
顔に吸い付いて取ることができず、やむなく山奥に入って鬼としての生活を始めるようになった
そして茨木童子と出会い、彼と共に京都を目指すようになったといわれている


陰陽師:安部晴明と敵対していたとされていますが、面識があったのかどうかは定かでない
京都に上った酒呑童子は、茨木童子をはじめとする多くの鬼を従え、大江山を拠点として
しばしば京都に出現し、若い貴族の姫君を誘拐して側に仕えさせたり、刀で切って生のまま
喰ったりしたという

あまりにも悪行を働くので、帝の命により摂津源氏の源頼光と嵯峨源氏の渡辺綱を筆頭とする
頼光四天王により討伐隊が結成され、姫君の血の酒や人肉をともに食べ安心させた上
酒盛りの最中に頼光が神より兜とともにもらった「神便鬼毒酒」という酒を酒呑童子に飲ませて
体が動かなくされたうえで寝首を掻かれ成敗された


余談:04 頼光四天王(よりみつしてんのう)】
渡辺綱(わたなべのつな)、坂田金時(さかたのきんとき)、卜部季武(うらべのすえたけ)、
碓井貞光(うすいのさだみつ)の4人で
大江山の酒呑童子退治のほか数々の鬼退治伝説で知られている


余談:05 八岐大蛇(やまたのおろち)】
記・紀の神話で、出雲の簸川(ひのかわ)にいたという大蛇、頭尾は各々八つにわかれる
素戔鳴尊(すさのおのみこと)がこれを退治して奇稲田姫(くしなだひめ)を救い
その尾をさいて天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)を得たと伝える

余談:06 【日本武尊の東征、100年頃(日本神話)】
時の天皇から、東国の12ヶ国(蝦夷)が従わないので、平定するよう命じられた日本武尊は
その一国である伊吹山の神を征伐することになりました
日本武尊は素手で戦うからと、草薙の剣を婚約者である美夜受比売(みやずひめ)に預けて
出かけました。伊吹山を登り始めてしばらくすると、白く大きなイノシシが現れました
山の神の、使いが変身しているに違いないから大したことはないと、先に進んでいきました
ところが、このイノシシが山の神自身が変身していたのでした
山の神は、日本武尊に大氷雨を降らせため、大きな痛手を被ってしまい
やがて病にかかり伊吹山を下りました。                      ( 日本書紀 )

日本武尊が、伊吹山の神から攻撃されたのは、伊吹山3合目付近であったそうです
山頂には、日本武尊像が建っています
                     (出典:ウィキペディア、家紋大図鑑:新人物往来者、その他)
【 蝶番(ちょうつがい) 】
 ・開き戸・蓋などに用いる金具、ちょうばん
  両片からなり、一辺は枠に、他方は戸などに打ちつけて開放できるようにするもの
 ・物事をつなぎとめるもの、特に関節「ヒザのー」                    ( 広辞苑 )


建築や家具などの金物として使用される「蝶番」
業者間では、「ちょうばん」として呼ばれることが多いようです
その他、「丁番」「丁双」などとも書かれます
一般的には「丁番(ちょうばん)」で表現されています、英語ではhinge(ヒンジ)
「丁双(ちょうそう)」は金物メーカーでも使用されている所といない所とマチマチです
丁は偶数を示し、双は二つで一組になるものをさしています


私達の身近に目にする家屋の開き扉
ここには、重量や開き勝手、開閉方法などによって吊もとの要(かなめ)となる丁番が使われ
その役割や種類など、実際の選定に当たっては専門家にお任せです
引き戸の戸車と同じく、開き戸の丁番は建具の生命線です
時どきには潤滑油をさして、可動を滑らかにする配慮も必要です

身体においても同じことが言えます、日常生活で起居は当たり前のことです
時には節々が痛くなり、果ては身動きもままにならなくなってしまうことさえあります
長年使ってきた身体は、老化という一言で再生をあきらめてしまいます
事実、これといった投薬や治療方法はなく、我慢のうちにその役目を終えてしまうことになります
妙薬の開発が待たれます・・・・


他方、人間関係において「ちょうつがい」という言葉がつかわれることがあります
反発する双方に、善意の第三者が現れ、問題を収拾する条件や物を提示され
双方の関係をつなぎとめ、修復することがあります
調停や斡旋、仲裁なども広義には同じことを意味しています

これとよく似た言葉に、「子はかすがい」という言葉があります
かすがい(鎹:両者の間をつなぎとめるもの、建材の合わせ目をつなぎとめる金具)
夫婦の間で起こる危機に際し、よく引用されます
  (子に対する愛情が鎹になって、夫婦の間が融和され、夫婦の縁がつなぎ保たれる:広辞苑)
建物には、使用目的にあった建築金物が使われます
締め付けるもの、移動を助けるもの、相互をつなぎとめるもの、などなど・・・・
それぞれが、適材適所につかわれ
私達が日常生活を営む上での、居場所としての建物の機能を維持しています

本多正信(徳川家康政権下の重心)の言葉に、建物に関する言葉がありましたのでご紹介します
  
淫酒は早生の地形、堪忍は身を立つるの、苦労は栄華の、倹約は君につかふるの材木
  珍膳珍味は貧の、多言慮外は身を亡ぼすの根太、人情は家を作るの
  法度は僕
(しもべ)をつかふの屋根、華麗は借金の板敷、我儘は朋友に憎まれるるの障子
  右十箇状常に忘るべからずのものなり (本多正信:壁書十箇状、新人物往来者:名言名句集)

  言い得て妙であります。こんな家を建てる施工者があれば、欠陥住宅は出来ないのですが・・・・

金物が発明され、常用されるようになってから
人々は、自分達の身の回りにおこる、さまざまな問題に重ね合わせ
「鎹」など、金物が持っている特性を理解したうえで、それに解決策をゆだねたのかもしれません
そのことから考えると、金物も文明の立役者の一つといえるかもしれません
「ヒザ」という万能の蝶番(ちょうつがい)を持っているのは私達です、歩き過ぎに注意し
時にはリハビリ・潤滑油などメンテナンスを行いましょう、ゆとりある人生のために・・・・
※4:織田信秀に仕え、妻が信長の乳母となる
※5:信長の乳兄弟となり厚遇される、池田氏発展の基礎を築く
※6:関ヶ原の軍功により姫路藩主(52万石)となる
※7:輝政の正室(中川氏の娘)の子、姫路藩二代目
※8:姫路藩三代目、因幡鳥取藩に転封、岡山藩に国替(※11との国替え)
※9:輝政次男、継室(徳川家康の娘富子)の子 初代岡山藩主
   葵の紋が許されている、分家筋
※10:輝政の三男、継室(徳川家康の娘富子)の子、岡山藩二代目
※11:岡山藩三代目、因幡鳥取藩国替(※8との国替)、この時三仏寺に寄進
※12:岡山藩主初代
※13:岡山藩二代目、備中松山藩に国替

余談:01 【清和源氏(せいわげんじ)】
征夷大将軍は慣例で源氏がなるとされています。徳川家康は、藤原氏を称していましたが、新田家の末裔となるべく系図を借り受け「源朝臣」と 称しました・・・・。一般的にはこのように解釈されていますが、これは関東入府に際しての対策であって反論があるとされいます。いずれにしても、徳川家康は清和源氏を仮冒(かぼう:他人の名をかたること、偽称)し 征夷大将軍と源氏長者に任じられ、江戸幕府を開きました。また、織田信長・豊臣秀吉などを除き、天下の名だたる武将が清和源氏の末裔を名乗っています。

                   
−長政
揚羽蝶の家紋:姫路城
山行日:2006.04.06、(晴)
所在地:兵庫県姫路市

世界遺産、国宝姫路城
築城の基は南北朝時代に遡ります
羽柴秀吉の時代に播磨統治の
中心拠点として姫路城を選定し
近世城郭の体裁を整えました
関ヶ原の勲功で池田輝政が
播磨一国を拝領し
52万石を統治しました
現在残る遺構は1601年から
8年がかりで築造されたものです
岡山藩→備中松山藩初代
岡山藩初代
岡山藩→因幡鳥取(32万5千石)→以降幕末(分家筋)
テーマの蝶:揚羽蝶は(写真はそのうちの一つ)
平家・織田家・池田家・関家などの家紋
です
池田輝政の家紋
輪蝶紋(備前蝶)
以降
備前岡山藩の家紋
姫路城の建物の屋根等に用いられている軒瓦などには
その瓦を作った時の城主の紋が彫り込まれています
池田氏の揚羽蝶紋、羽柴(豊臣)氏の桐紋
奥平氏の三ツ巴紋、本多氏の立葵紋などがよく見られます
今日のことば
611版:平成18年09月14日 木曜日
 蝶  番

編集子が所蔵している家紋大図鑑(収録件数:4462点)には、蝶だけでも70種以上もあります
日本では、揚羽蝶を平家が家紋としたので知られています。平安時代末期から鎌倉時代にかけては、平家以外でも蝶の家紋が流行したそうです。悲しい最期をとげた平家への哀悼の念と、蝶にまつわる再生と復活の観念が働いているのかもしれません。中世では、池田家が揚羽蝶を家紋にしていることが知られています。ここでは、軒瓦の写真データーのある姫路城に関係の深い池田輝政をとりあげ、系図を調べることで、揚羽蝶の飛んでゆく行き先を見つめてみることにしました。
♪うさぎ追いしかの山
     こぶな釣りしかの川・・・・
今も歌い継がれている童謡「ふるさと」
私達は折に触れ、
過ぎ去った昔を思い出し、今の活力の
源を探しているのかもしれません
花から花へと飛んでいる蝶を追いかけ
赤トンボと夢中になって戯れて・・・・
夕げの時間に間に合わず
お袋に心配を掛けた想い出があります
なぜ、必死になって
蝶やトンボを追っかけていったのかは
思い出せませんが
今も山野で蝶やトンボを見かけると
カメラに納めようと
追っかけている自分がそこにあります
純真無垢な少年時代・・・・
私達にもそんなときがあったのです
環境が壊され、今の子ども達に
そんなことを望むべくもありません
懐かしがっているのは
昔の子どもばかりなのでは・・・・
「ちょうつがい」の蝶にことよせて
揚羽蝶にかかわる「家紋」に
焦点をあわせてみました
山行に見る 蝶の行方
一緒にいってみたいなこんなとこ
みたいな
山葵の山行まっぷ
印の県に「目的地」があります
県名
鳥取
兵庫
山呼-リスト
※ご参考までに
このコラムは
管理人のひとり言です
黒や灰色の文字は
編集子のオリジナル
カラー文字は編集子所蔵
資料からの引用です
山呼らいぶらり〜
上部写真の軒瓦(拡大写真)
軒瓦、左の揚羽蝶と形が少し違います
姫路城天守、右:大天守
   中:西小天守、左:乾小天守
現在の遺構を整えた池田家は
三代続いた後、因幡鳥取藩へ国替
三徳山三仏寺
山行日:1994.06.11、(晴)
所在地:鳥取県三朝町

三仏寺は投入堂(国宝)のある山陰の古刹
揚羽蝶の家紋を持つ池田家ゆかりの寺です

1980.08.14/17にかけ
松江城観光〜大山山行〜三仏寺への旅行に
出かけました
その時は、投入堂の知識はありましたが
池田家との関係があるとは知りませんでした
大山山行の帰路、三朝温泉に立ち寄り
宿泊所を探していたところ
ガソリンスタンドの店員から
三仏寺に宿坊があるからと紹介され
泊まることにしました
現在の宿坊は
皆成院・正善院・輪光院の三軒ありますが
当時、どの宿坊に泊まったかは定かではなく
食事の什器に揚羽蝶の蒔絵が施してあり
これはえらい食器では・・・・
池田家の家紋が
揚羽蝶であることは知っていましたが
寺と揚羽蝶の関係はそれっきりでした
・・・・それから25年、四半世紀たってから
次のような顛末を知ったという次第です

鳥取藩初代藩主:池田光仲が寺に百石を寄進
これらの寺領は幕末まで維持されました
天保10年(1839)には池田斉訓(九代)が
本堂を再建するなど近世を通じて
歴代鳥取藩主の庇護を受けました
三徳山三仏寺のシンボル
投入堂(国宝)です
この写真は2度目に訪れたときのもの
池田家の始祖
岡山藩二代
岡山藩初代(28万石)
姫路藩初代
姫路→因幡鳥取→岡山藩(31万5千石)→以降幕末(嫡流)
姫路藩二代
−之助
−忠雄※10−−光仲※11−−綱清−−(中略)−−慶徳(廃藩)





−信輝(恒興)※5 −−輝政※6−−利隆※7−−光政※8−−綱政−−(中略)−−章政(廃藩)











−長吉※12−−長幸※13−−寄進−−長常(無嗣改易)
−忠継※9



−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
源頼光※2−−頼国−−頼綱−−仲政−−泰政(池田氏を称す)−−(中略)−−信恒※4−−
−頼平
※0:第五十六代天皇(在位:858〜876)
※1:清和源氏の三代目にして、清和天皇の第六皇子貞純親王の子である経基王が
   臣籍降下(皇族の身分を失って臣籍に降ること)により、源姓を賜った
※2:源頼光(みなもとのよりみつ、俗にらいこう、948〜1021)平安時代の武将
   藤原道長につくす。池田家の始祖、酒呑童子退治で知られる
※3:系譜には鎌倉幕府を開いた源頼朝・範頼・義経がいる



−頼信(河内源氏)
−頼親(大和源氏)※3
清和天皇※0−−貞純親王−−経基王(源経基)※1−−満仲−−頼光(摂津源氏)※2
池田輝政 系図
   
拡大写真 
(下)
天守入口から大天守を見上げます
家紋:輪蝶紋(備前蝶)
家紋:揚羽蝶紋・三つ葉葵紋も許された