【 徳不孤 必有隣 】
   (徳は孤ならず、必ず隣有り:とくはこならず、かならずとなりあり)

徳のある人は孤立することなく、必ずそれに賛同する人が集まるという意。
亭主の人徳が人心を集める。      (出典:論語 里仁編 第四 二十五章)

           ※里仁編とは、「仁に里(お)るを美と為す」で始まり、仁と徳を論じています
「徳のある人は決して孤立などするものではありません
         必ず理解し共鳴する人達があらわれてくるものです」
だから、自分自身が信じる道を進みなさい、されば道は開ける、とでも言うことでしょうか・・・・
異論があるかもしれません、徳よりも目先の利害、欲との二人ずれ、孔子さんの嘆きが聞こえます

私達は、これまで必死で学んできたことや、経験をつんできた技術などが
社会や世間に認められず、腐ってしまうことが往々にしてあります
そのうさを晴らすために、愚痴を言ったりヤケ酒を飲んだりすることもあります
一方、それまで主張し続けてきたことを曲げ、妥協したり迎合したりすることもままあります
そして、日和見とか、風見鶏とか、ご機嫌取り、こうもり族、天秤担ぎ、などなど・・・・
陰口をたたかれても、「それも方便だ」と認識してしまう考え方(割り切る)に傾いてしまいます


大勢の中にいれば、自己主張は難しく、目立ちません、足をひっぱられます、裾を踏まれます
しかし、批判や批評も無く、安穏とした場所が得られるかもしれません(虚構ですが・・・・)
人は一人になるのが怖いものです、寂しいものです
しかし、中心にいる人ははたして心酔できる人でしょうか、尊敬できる人でしょうか
周りにいる人たちは、信頼にたりる人たちでしょうか(洗脳されている場合はこの限りにあらず)
自己中心や権利のはき違いをしたり、相手の意見や考えを無視したりする人ではありませんか
そしてなによりも、頭を下げながら見えないところで舌を出している自分がそこにいるのでは・・・・
損得勘定するのは世の常人の常で、悪いことではありませんが
打算や疑心暗鬼の中で自分を見失い、崇高な自分の人生を自らの手で失うことにも・・・・

日の当たらない不遇のときもあるかもしれません、一生うだつが上がらないかもしれません
しかし、自分の意思を曲げずに人の道(世のため人のための道)を求め、学び続けれていれば
鈍い光かもしれませんが、次第に輝きを増し、徳が備わり、人々は慕い集まってくるものだと・・・・
賛同者や理解者・協力者(良識ある人たち)は増え、一人(孤)にはしておかないことでしょう


私達は、格差社会という時流の中で、ますます利益優先で物事を天秤にかけてしまいがちです
社会をリードする人の権力・権益が強ければ強いほど、その影響は大きいものがあります
人の嫌がることや避けてしまいそうなことをしていると、目立ちたがりとか、偽善者などと言われ
また体勢に取り入り、巧く立ち振る舞う特異な才能の持ち主も現れます(それがほとんどなのかも)だから、長いものには巻かれろ、というのも処世術として連綿と続いてきたのも、当然の理・・・・

良識のある人には、それはわかるもの、いわゆる徳(人徳)というものが備わっていないからです

付け焼刃でやっているのではなく、その人の身に備わっている行動や言葉というものは
説得力があり、相手の心をうつものです、また、自分にそのような意があればわかるものでは・・・・

とはいいながら、徳のある人は、世の中に少なからず存在するのに
差別・貧困・破壊などなどが横行蔓延し、社会(世界)が一向によくならないのはなぜでしょうか
徳のある人が光を放つのを自ら覆ってしまったのでしょうか、諦めたのでしょうか・・・・

禅語にこんな言葉があります
【 花木無心蝶自遂 (かぼくむしん ちょうおのずからおう) 】  
美しい花の咲く木は、無言のまま何の自己主張などしないが、そこには蝶が自ずと集まってくる
無心無作の妙用であるが、それは花木の徳でもある。人間も同じ・・・・( 淡交社:禅語大辞典 )

こころにかけておきたい言葉のひとつです・・・・
※4:織田信秀に仕え、妻が信長の乳母となる
※5:信長の乳兄弟となり厚遇される、池田氏発展の基礎を築く
※6:関ヶ原の軍功により姫路藩主(52万石)となる
※7:輝政の正室(中川氏の娘)の子、姫路藩二代目
※8:姫路藩三代目、因幡鳥取藩に転封、岡山藩に国替(※11との国替え)
※9:輝政次男、継室(徳川家康の娘富子)の子 初代岡山藩主
   葵の紋が許されている、分家筋
※10:輝政の三男、継室(徳川家康の娘富子)の子、岡山藩二代目
※11:岡山藩三代目、因幡鳥取藩国替(※8との国替)、この時三仏寺に寄進
※12:岡山藩主初代
※13:岡山藩二代目、備中松山藩に国替

征夷大将軍は慣例で源氏がなるとされています。徳川家康は、藤原氏を称していましたが、新田家の末裔となるべく系図を借り受け「源朝臣」と 称しました・・・・。一般的にはこのように解釈されていますが、これは関東入府に際しての対策であって反論があるとされいます。いずれにしても、徳川家康は清和源氏を仮冒(かぼう:他人の名をかたること、偽称)し 征夷大将軍と源氏長者に任じられ、江戸幕府を開きました。また、織田信長・豊臣秀吉などを除き、天下の名だたる武将が清和源氏の末裔を名乗っています。
                                 (出典:ウィキペディア、その他)
源頼光※2−−頼国−−頼綱−−仲政−−泰政(池田氏を称す)−−(中略)−−信恒※4−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−




−忠継※9
−長吉※12−−長幸※13−−寄進−−長常(無嗣改易)
−長政












−信輝(恒興)※5 −−輝政※6−−利隆※7−−光政※8−−綱政−−(中略)−−章政(廃藩)





−忠雄※10−−光仲※11−−綱清−−(中略)−−慶徳(廃藩)
−之助
姫路藩二代
因幡鳥取→岡山藩(31万5千石)→以降幕末(嫡流)
姫路藩初代
岡山藩初代(28万石)
岡山藩二代
岡山藩→因幡鳥取(32万5千石)→以降幕末(分家筋)
岡山藩初代
岡山藩→備中松山藩初代
池田家の始祖
揚羽蝶の家紋:姫路城
山行日:2006.04.06、(晴)
所在地:兵庫県姫路市

世界遺産、国宝姫路城
築城の基は南北朝時代に遡ります
羽柴秀吉の時代に播磨統治の
中心拠点として姫路城を選定し
近世城郭の体裁を整えました
関ヶ原の勲功で池田輝政が
播磨一国を拝領し
52万石を統治しました
現在残る遺構は1601年から
8年がかりで築造されたものです
※蝶の種類で名称が
  間違っていましたら
  ご連絡をお願いします
モンシロチョウ
野原や畑でふつうに見られ
フワフワと飛ぶ白っぽいチョウ
モンキチョウの白チョウと
まちがえることがある
秦川山山麓の蝶
山行日:2004.06.02(晴)
所在地:滋賀県愛荘町

モンキアゲハ
真っ黒で、後翅の白い紋が目立つ、大きなアゲハチョウ
蝶々深山 山頂標識
西側(乗鞍岳方面)を見ています
蝶ヶ岳(標高:2677m)
山行日:2003.07.27/28、(曇)
所在地:長野県松本市安曇
蝶ヶ岳の峰は、蝶槍・三角点・長塀ノ頭の3箇所あります
最高点を蝶ヶ岳と呼称しました
県名
印の県に「目的地」があります
山葵の山行まっぷ
岐阜
滋賀
長野
今日のことば
610版:平成18年09月07日 木曜日
徳不孤必有隣
※0:第五十六代天皇(在位:858〜876)
※1:清和源氏の三代目にして、清和天皇の第六皇子貞純親王の子である経基王が
   臣籍降下(皇族の身分を失って臣籍に降ること)により、源姓を賜った
※2:源頼光(みなもとのよりみつ、俗にらいこう、948〜1021)平安時代の武将
   藤原道長につくす。池田家の始祖
※3:系譜には鎌倉幕府を開いた源頼朝・範頼・義経がいる
ヒメウラナミジャノメ
草の上をフワフワと飛ぶ
目玉模様のある薄茶色のチョウ
はねの裏面には
細かい波形のもようがある
後翅裏面の目玉模様は
左右各5つずつ
ツマグロヒョウモン
野原や公園などに広く生息し
都市周辺では
ヒョウモンチョウの中で
最も見る機会が多い
山行に見る 蝶の乱舞
三仏寺
山行日:1994.06.11、(晴)
所在地:鳥取県三朝町

揚羽蝶の家紋を持つ池田家ゆかりの寺
鎌刃城址山中の蝶
山行日:2005.07.08、(晴)
所在地:滋賀県米原市

アサギマダラ
浅葱色(薄い藍色)をしたマダラ模様。緩やかにまい飛びます
関東地方以西に生息し、長旅をして長距離を移動します
霧ヶ峰高原 蝶々深山
山行日:2004.06.05、(晴)
所在地:長野県諏訪市

一体は霧ヶ峰高原です
蝶々深山(標高:1836m)は
中央右側の小高い丘です
中央は八島湿原
右おくの山並みは
美ヶ原高原です
中央遥か彼方に北アルプスが雪をかぶっています
みたいな
一緒にいってみたいなこんなとこ
山呼-リスト
蝶ヶ岳ヒュッテ前から見る穂高連峰の朝、標高:2600m
朝日は背後からでます
この山行はガスがまとわりつた山行で、折角のアルプスの
雄大なパノラマがまぶたに留められませんでした
リベンジをと思っているのですがいまだに実現してません
※ご参考までに
このコラムは
管理人のひとり言です
黒や灰色の文字は
編集子のオリジナル
カラー文字は編集子所蔵
資料からの引用です
山呼らいぶらり〜
私達は山野に入り
大自然の営みに触れ
驚嘆や感動、感激をいたします
何の作為も講じられていない
あるがままだからでしょうか
春が来れば花が咲き
鳥はさえずり蝶が舞う
秋が来れば木々は化粧に怠り無く
虫達の合奏にも熱がこもります
花は色の鮮やかさや
花弁のつけ方などの工夫はありますが
それはその花に備わっているもの
人で言えば徳というもの・・・・
金銭や美辞麗句などは必要ありません
花木に鳥や虫達が
自然に集まってきます
私達の社会もこうありたいものです
今回のアルバムは「徳・仁」にちなみ
花木の徳に集まる
蝶に焦点をあててみました
山本山山中の蝶
山行日:2006.09.03、(晴)
所在地:滋賀県高月町

キアゲハ
やや黄色っぽいアゲハチョウ
前翅の付け根が黒くなっていることで、普通のアゲハと見分けることができる
南飛騨横谷峡の蝶
山行日:2006.08.02、(晴)
所在地:岐阜県下呂市

カラスアゲハ
輝きの強さは見る角度によって
微妙に変化する
彦根東部山麓の蝶
山行日:2006.09.02.他、(晴)
所在地:滋賀県彦根市

モンキアゲハ
林の周辺をゆったりと飛び
花で吸蜜したり
地面で吸水したりする
大きい分、はねが丈夫なのか
小雨の中でも平気で
活動しているのをよく見かける
カラスアゲハ
一見黒っぽいが
よく見るとはねの表が
緑色〜青色に輝いて見える
美しいアゲハチョウ
キチョウ
林縁や草原で普通に
見られる、黄色いチョウ
モンシロチョウや
モンキチョウよりは
ひとまわり小さい
蝶槍 標高:2600m
蝶ヶ岳の最北に位置します
蝶ヶ岳三角点 標高:2664.3m
蝶槍の南約200に位置します
蝶ヶ岳 長塀ノ頭 標高:2677m
山域の最高点です
三角点の南約1300mに位置します
揚羽蝶の大移動
池田輝政、関ヶ原の勲功で姫路城に52万石で入る
池田長吉(池田輝政の弟)は関ヶ原の後因幡鳥取藩に6万石で入る
       二代(池田長幸)に継いで、備中松山へ転封
池田光正(輝政の嫡孫)が姫路城より、因幡・伯耆二ヶ国に32万5千石で入る

前後するが、一方、備前岡山には小早川秀秋改易のあと、池田輝政の二男、家康の娘の子で、家康が非常に愛した外孫、池田忠継がわずか5歳で備前一国28万石を別家として与えられ岡山藩主となり、さらに38万石となる。後見として姫路藩主である兄池田利隆が岡山城に入って実務を見た。
しかし、忠継はわずか3年、8歳で早世。
弟の忠雄が継ぎ、この時、3人の弟忠澄、政綱、輝興に播磨の所領を分知して、分知し、32万石となった。
池田忠雄も31歳で亡くなり、子の光仲が3歳で岡山藩主となるが、幼く山陽の拠点岡山は治めがたいとして、従兄弟の池田光政と交替する。

そもそも5歳の池田忠継を岡山城主に入れて、わずか2代あとになって、甥の幼主光仲には岡山は治めがたし、というのもいささか無理な理屈でもあり、池田家の家臣たちが、光仲が幼いため、減封を恐れて、池田家の方から、岡山と鳥取のチェンジを申し出たようだが、家康の孫への偏愛に始まったボタンの掛け違いを直したという感もある。
池田輝政の最初の室は中川氏の娘で池田利隆はその子であり、その後継室として家康の娘富子を迎え、忠継、忠雄が生まれているのである。
この経緯もあり、嫡流は姫路→鳥取→岡山と移った利隆→光政の流れであり、岡山→鳥取に移ってきた忠継→忠雄→光仲は分家筋なのだが、鳥取の光仲の池田家には、家康の血が入っており三葉葵の紋の使用を許されているし、若干石高も高い。
物や塀の屋根に用いられている軒瓦などには
その瓦を作った時の
城主の紋が彫り込まれています
池田氏の揚羽蝶紋、羽柴(豊臣)氏の桐紋
本多氏の三つ葉葵紋などがよく見られます
天守入口から大天守を見上げます
   
拡大写真 
(下)
上部写真の軒瓦(拡大写真)
軒瓦、左の揚羽蝶とまた違います
姫路城天守
   右:大天守
   中:西小天守
   左:乾小天守

現在の遺構を整えた池田家は
三代続いた後因幡鳥取へ転封
テーマの蝶:揚羽蝶は池田氏の家紋です
−頼平



−頼信(河内源氏)
−頼親(大和源氏)※3
清和天皇※0−−貞純親王−−経基王(源経基)※1−−満仲−−頼光(摂津源氏)※2
池田輝政 系図