イソップ物語に、皆様ご存知の『オオカミ少年』というのがあります
  羊飼いの少年が、オオカミがきていないのに「オオカミが来た」という言葉を発したところ
  村人達は、すぐさま自分の羊を避難させたり、少年を助けにきました
  どこにもオオカミは居ないので、村人達は警戒を解き、やがて帰ってゆきます
  面白がった少年は、来る日も来る日も 「狼が来たぞ〜」 と叫びました
  初めのうちは、その度ごとに村人たちも駆けつけて来ましたが
  そのうちに村人は、少年を信用しなくなり、 「オオカミが来た」 と叫んでも
  どうせまた嘘だろうと思って、誰も避難したり駆けつけて来なくなってしまいました
  ところがある日、本当にオオカミがやって来て、少年は 「オオカミが来た」 と必死で叫びますが
  村人は誰も来てくれず、少年の羊はオオカミに喰われてしまい、自分も襲われてしまいました

というのが概要です、『ウソ』をついてはいけない、という教訓めいた物語だと昔は思っていましたが
最近の世情にとって、重要な鍵が含まれているのではないだろうかと感じ、思い出してしまいました

地震国日本、大地が頻繁にゆれています(社会も相当揺れています、人々の心も歪んでいます)
地震予知という学問があって、地殻変動を観測して地震発生の予知をし
被害を最小限に食い止めよう、というものです
予知ですから、その発生の恐れはあるのですが、その時点では地震は起こっていない状況です
しかし、一般の人には発生していない状況下で、「地震がおこる恐れがある」と予報するのですから
そのために起こる、社会生活の停滞や経済の混乱は少なくはありません
パニックが発生しないとも限らず、情報を「発」する立場の者にとっては、「決断」のいるところです

予知(よち:前もって知ること)予報(よほう:あらかじめ知らせること、また、その報告)
前出の『オオカミ少年』の物語と重なってきます
オオカミは、日頃その地域に出没していたと思われます、以前にも被害が出てもいたのでしょう
だからこそ、村人達は避難もし、少年を助けにも来ました
物語の結果は、少年の予報(偽報)が繰り返されるうちに、最悪の結果となってしまいました
予知や予報が「悪戯やウソ」として捉えられると、もはや危機回避の機能が働かなくなります

少年の行為にも問題がありますが、村人達の危機管理にも、多少の問題点があると考えられます
空振りの場合もあるでしょうが、それはそれでいざと言うときの備えですから無駄ではありません
人は、いったい何回振り回されたら予報が偽報にすり替わるのでしょうか
怒りだけで済めばいいのでしょうが、損害賠償だって起こるでしょう(そのために保険があるって?)
予知・予報による損害・リスクは、誰が負担するのでしょうか・・・・発信者それとも受信側・・・・
それぞれが、『生命と財産の保護』という、共通の認識の上にたって行動するわけですが
時として、非情の決断を迫られることが起こることも考えられます

情報の発信者側は、社会全体のリスクを、最小限に食い止めようとするでしょうし
受信者側は、受信者の身の回りの範囲において、物心両面の損失の防止を考えるでしょう
余裕ができた所で、他人や他地域の状況に目を向けることができ、対処に向かうことができます


予知・予報は必要ですし、それによって必要な危機回避のための準備が整います
しかし、危機というのは『大変なことになるかもしれない』ということですから
想像を超えるものばかりです、想像できるものは、それなりに対応もできるのですが
想像を超えるものはいかんともできません、考えても『どうにもならない』ことでもあります
♪ケセラセラ〜、なるようになる〜・・・・、しかない
なんて・・・・、危機研究をされている方には申し訳ないのですが、これが本音のようで・・・・
事が起こってからどのように対処するか・・・・、昨今の危機対応の状況です
これも、危機発生のメカニズム上、いたし方のないことでもあります
これからも、いろんな危機に直面し、経験を積んで
想像を超えるものの事態の発生にむけて、あらゆる努力がなされることでしょう・・・・
  ↑
大谷吉継
     ↑
宇喜多秀家

小西行長

福島正則
細川忠興
↑井伊直政
↓黒田長政
丸山のろし場
  
島津隊退路→
小早川秀秋
    ↓
↑この一帯:壬申の乱戦場
佐和山方向→
決戦地の東軍の各将が陣を布いていました
中央奥の山は南宮山です
中立派の毛利・吉川・安国寺陣等が位置し
その前の小高い山は桃配山で
ここには家康の最初の陣がありました
左の小高い山に小早川秀秋のいる松尾山
森の付近に西軍の主力である島津・小西
宇喜多・大谷陣等が布かれていました
←大垣方向
関が原の合戦:決戦地
右方向の小高い山に
石田三成の陣が
布かれていた笹尾山です
かくして
08:00 開戦の火蓋が切られる
09:00〜11:00 激戦
12:00頃 小早川軍寝返る
13:00 西軍総崩れ
14:00 島津隊中央突破
湖岸右の山が大岩山です。
(標高:約270m)
ここは、秀吉方の将の一人である中川清秀の布陣した所です。合戦が膠着していた頃、秀吉軍主力は大垣にいました。その隙を突いて、柴田軍の佐久間盛政が、行市山から急襲。その知らせを大垣で受け取った秀吉は、急きょ、賤ヶ岳に取って返します
これが世に名高い賤ヶ岳の大返しです。中川清秀の奮戦もむなしくこの地で戦死。そして七本槍の激戦が火蓋をきるのです。
#4、賤ヶ岳の合戦1583年(天正11年)所在地:滋賀県余呉町、撮影日:2005.10.09、(晴)
賤ヶ岳山頂(標高:421m)からの余呉湖(北側)を見る              写真は2枚合成
川並
 
壬申の乱が繰り広げられた不破の関近く
現在は棚田があり長閑な雰囲気です。戦当時
付近を流れている川の水が赤く染まったとか
山呼らいぶらり〜
今日のことば
#5、関ヶ原の合戦、慶長5年(1600年)、所在地:岐阜県関ヶ原町、撮影日:2005.
松尾山からの関ヶ原盆地の展望 ※奇しくも、壬申の乱の戦闘場所とダブります
参戦した主要武将の陣地位置を示す 黄字:西軍/赤字:東軍  新旧の天下分け目の戦場です

キーマン:小早川秀秋は
戦況をどのような思いで
見つめていたのでしょうか
横山岳 ↓
605版:平成18年02月26日 日曜日
伊吹山南側の雪景色です、撮影日:2005.01.22(晴)、所在地:滋賀県米原市
穏やかな表情をしていますが、古よりこの山裾で多くの人々の争いがありました
山はそれを見続けているのです、ここに伊吹山を証言者として、人間の醜さの一端を紹介します
予知と予報
伊吹山
  ↓
笹尾山
石田三成
    ↓
島津維新
島津豊久
 ↓
徳川家康
最後陣跡
 ↓
 ↓
 ↓
桃配山
徳川家康
最初陣跡
    ↓
    ↓
    ↓
←石田三成逃走路
行市山↓
中尾山↓
大岩山
  ↓
#3、姉川の合戦:1570年(元亀元年)、所在地:滋賀県長浜市、撮影日:2004.01.12(晴) 
建物の背後にある林の連なっている所が姉川です(左が琵琶湖、右が伊吹山方向です)
背後は、この戦の重要拠点であった横山城がありました

姉川の合戦 上洛を果たした織田信長は、意に応じなかった越前の朝倉義景を攻め、同盟軍であった浅井長政は、朝倉側に寝返ったため挟み撃ちにされました。この戦いで殿(しんがり)を申し出た羽柴秀吉・徳川家康らの活躍により窮地を逃れた信長は、軍勢を立て直し近江に侵攻。

元亀元年(1570年)6月28日、近江国姉川河原で織田・徳川連合軍2万8千人と、浅井・朝倉連合軍1万8千人が、姉川を挟んで対峙しました。戦闘は平地戦で、戦いは織田軍が勝利し、姉川の戦闘は一時、停戦状態になりました。その後、武田信玄の死去や足利義昭を追放することにより、浅井攻めに集中できるようになったため、織田軍は5万人の軍勢に増強され、天正元年(1573年)8月「小谷城」は織田勢の大軍に包囲され、浅井長政は8月29日に自刃、信長の天下取りが前進。

当時、浅井軍はこの合戦を「野村合戦」と呼び、朝倉軍では「三田村合戦」と称されたようです。『信長公記』などには、合戦の記述があるようですが、簡潔な内容にとどまり、合戦の詳細については不明な部分が多いようです。なお、「姉川合戦」というのは、合力した徳川軍の呼称といわれます。

NHK-TV番組 その時 歴史は動いた、2006年2月8日(水)放送 第244回から
壬申の乱 「天武天皇誕生の秘密」から気になる所を掲載いたします。詳しくはNHKのhpで・・・・
☆「天皇」の称号と登場人物の呼び方について
  日本書紀には全ての大王(おおきみ)を天皇と書いていますが、遺跡から出土する木簡から
  「天皇」という称号は天武朝から使われたというのが現在の通説です
  ちなみみに皇子=「おうじ」という呼び方も天皇号誕生以前には無かったので
  中大兄皇子=「なかのおおえのみこ」
  大海人皇子=「おおあまのみこ」、大友皇子=「おおとものみこ」という呼び方に統一しました
☆「神話の時代から続く大王を全て天皇とした」理由について
  日本書記の記述が全てそうなっている事によります
  日本書紀の編纂は、天武天皇の命ではじまったとされます
☆なぜ大海人皇子は息子を大将にしたのか
  番組のスタジオゲストの遠山さんの説ですが、大海人皇子は敵の大将を自分の息子と同格に
  する事によって、自分は大将(大王)以上の存在であるとアピールしたかったと思われます
                               ( NHK-「その時、歴史は動いた」 抜粋 )
山行に見る 有事の場面
一緒にいってみたいなこんなとこ
みたいな
山葵の山行まっぷ
印の県に「目的地」があります
県名
※ご参考までに
このコラムは
管理人のひとり言です
黒や灰色の文字は
編集子のオリジナル
カラー文字は
編集子所蔵の
資料からの引用です
岐阜
滋賀
#1、日本武尊の東征、100年頃(日本神話)
時の天皇から、東国の12ヶ国(蝦夷)が従わないので、平定するよう命じられた日本武尊は、その一国である伊吹山の神を征伐することになりました。日本武尊は素手で戦うからと、草薙の剣を婚約者である美夜受比売(みやずひめ)に預けて、出かけました。伊吹山を登り始めてしばらくすると、白く大きなイノシシが現れました。山の神の、使いが変身しているに違いないから大したことはないと、先に進んでいきました。ところが、このイノシシが山の神自身が変身していたのでした。山の神は、日本武尊に大氷雨を降らせため、大きな痛手を被ってしまい、やがて病にかかり伊吹山を下りました。 ( 日本書紀 )
日本武尊が、伊吹山の神から攻撃されたのは、伊吹山3合目付近であったそうです。山頂には、日本武尊像が建っています。毒気にあたって、伊吹山から命からがら麓にたどり着いた日本武尊は、清水を飲んで体を休めたところ、清水の効果は大きく、高熱が冷めたという話が伝わっています。米原市大清水の「泉神社の清水」や醒ヶ井に「居醒の清水」があります。醒ヶ井はその昔、中山道を往来した人たちの休憩所でもありました。日本武尊が傷をいやしたことから「居醒(いざめ)の清水」と呼ばれ、醒井(さめがい)という地名も、この話が元になったと言われています。
危機とは危険な状態です
己の身に降りかかるわけですが
自分に起因しないでも起こり得ります
その最たるものが
戦争や事変などの有事です
庶民のかかわりのない所で
権力闘争や利益闘争の果てに
非常の事態が起こります
まったく迷惑この上もないことですが
欲望の果て、と言っても
過言ではありません
歴史は戦で、いや、多くの人々の血で
色塗られた時の流れの記録です
為政者の考え:決断により起こります
しかし、身に降りかかる火の粉は
振り払らわなければなりません
争いは争いを呼び、欲望は果てしなく
古今東西、愚かしき人類の性では・・・・
今回は、『予知・予告』の対象である
有事の場面を紙上で展開して見ました
伊吹山頂にある日本武尊(やまとたける)の石造
日本武尊は日本書紀、倭建命は古事記の表記
#2、壬申の乱:672年(白雉24年)
律令国家を確立したといわれる大化の改新からわずか27年後におきた古代日本最大の戦い
671年、天智天皇が崩御されると、実子である大友皇子(後の弘文天皇)を立てる近江朝廷側と、吉野に隠遁していた皇太子の大海人皇子(後の天武天皇)との戦いが、関ヶ原で行われました。大海人軍に近江軍はしだいに押されていき、瀬田川の決戦で壊滅状態となり大友皇子は長等山において自害された。戦いは終結。また、関ヶ原合戦で徳川家康が最初の陣を張った桃配山の呼名は、大海人皇子が壬申の戦の際、この地で桃を配って兵を激励したという言い伝えからきている。   ( 関ヶ原町-抜粋編集 )
小谷山
  ↓
左前方の山が行市山(標高:660m)で、佐久間盛政が陣を設けていました。その山中の別所山砦には前田利家の陣、柴田軍は行市山の奥、約3kmの位置にある中尾山(別名:柳ヶ瀬山、標高:450m)に布陣(写真では見えません)
佐久間盛政が、中川清秀に奇襲を仕掛けることで戦闘が開始されます。佐久間軍は、西側尾根伝いに川並を経て湖岸を大岩山へと・・・・
ここに立つと手に取るようです・・・・
賤ヶ岳の合戦 天正11年(1583年)、織田信長の跡目を巡って、覇権を争っていた羽柴秀吉と柴田勝家が、天下人への道を争った戦いです。秀吉は、大垣から木之本までの13里(約50km)を5時間で取って返すという「大返し」と、「賤ヶ岳の七本槍」といわれる俊英の活躍により勝利を得ました。七本槍とは、福島正則、加藤清正、片桐且元、脇坂安治、加藤嘉明、平野長泰、糟谷武則の7人をいいますが、実際には桜井佐吉、石川一光を加えた9人という説もあるようです。七本槍はいずれも軽輩でしたが、高禄をもらい豊臣氏のために働きました。秀吉が、戦国時代の精算をして「日本の治まりはこの時に候」と言ったのは、この賤ヶ岳の合戦の後だといわれています。
姉川
 ↓
伊吹山→
←琵琶湖
金糞岳
  ↓
横山城
  ↓
関ヶ原の合戦 太閤秀吉が薨去(こうきょ)の後、遺言により、家康は秀吉の遺児:秀頼の後見人として政治を任せられました。五大老・五奉行の中で一番力があったのは、内府殿と呼ばれた家康でした。しかし、五大老・五奉行や他の大名の中で、うちわもめになっていきました。これを押さえていた前田利家が薨去後、とうとう対立が激化し、次第に合戦へと進んでいきました。
慶長5年(1600年)9月15日、ついに戦いの火ぶたが切って落とされました。
天下を分けた合戦は、小早川秀秋の裏切りにより、東軍の大勝利となります。この合戦により、天下の実権は名実共に家康に移ります。この後、大阪冬の陣・夏の陣により豊臣家は滅び、征夷大将軍に任じられた家康は、徳川幕府を開き、 280余年に亘る長期安定政権の礎をつくりました。
伊吹山は、日本史における「ヘソ」の位置にあると考えられます。神話の時代から徳川の長期政権の樹立まで、人々の欲望が渦巻いていた所です。
ここに、思いつくままに有事がおこった場所を記し、旧跡をダブらせて見ました。するとどうでしょう、天下分け目の戦が地図を賑わしています。そして、超有名人の名前も出てきます。伊吹山は正に、歴史の証言者ではないでしょうか。
その、時の流れを頭に思い浮かべながら歩くのも、山行を10倍楽しくするものかも知れません。山行はロマンかも・・・・
※北近江における、南北朝時代との関わりは、関係者の墓があることでも窺がい知れます
北近江における日本史上の有事 位置図
 伊吹山は証言者
辛草オリジナル