節分のこと
2006年の2月3日は節分です
節分とは、季節の移り変わるとき
すなわち立春・立夏・立秋・立冬の前日の称、とされています
とくに、立春の前日を指して言われます
これは、中国の漢代以降(前漢:前200頃)に
一年のはじまりは
立春節を含む月を正月(一年がはじまる)としたために起因するとされています
前年と今年の境にある立春は、最も大切な「節」で
その前日の節分は、一年の最終の日となります、いわゆる大晦日です

そのため、新年の幸福を願って、年越しの行事が行われるようになりました
その一つが、追儺※(ついな:宮中の年中行事の一つ、鬼遣らい:おにやらい)です
 ※文武天皇の世、慶雲3年(706)に疫病がはやり、多くの百姓が死んだため
  「土牛」を作って疫気を祓った、という記事が続日本書紀に出ています
  これが追儺の行事の始まりであるとされています   ( 広辞苑 )

横道にそれますが、暦には
1年の長さを太陽の動きによって決める「太陽暦」と
1月の長さを月の動きによって決める「太陰暦」とがあります
また、1月を月の動きによって決め、1年を太陽の動きに調整する暦を「太陽太陰暦」と称します
日本では、明治5年までは「太陽太陰暦」を使用していました、これを一般に「旧暦」と言い
明治5年の改暦以降使用されている太陽暦を「新暦」と言っています

暦は、飛鳥時代に中国から朝鮮半島を経て、日本に伝わりました
推古12年(604年)に日本最初の暦が作られ
実際に使われ始めたのは持統天皇6年(692年)からとされています

その後、暦法は幾度となく改められ、現在に至ります

節分、この日の夕暮れから夜に、豆をまく風習があります
もともと宮中で行われた習慣が、一般家庭に普及したとされます
年男(その年のえとの生まれの人)になる男性か一家の主人が、煎った豆をまきます
豆まきのやり方は、地方によってさまざまな方法があるようです

一例によると
家の扉を開け放ち、歳徳神(としとくじん:その年の福徳をつかさどる神)に
背いて(屋外に向かって)、『鬼は外』、と唱え、すぐに扉を閉め
歳徳神に向かって、『福は内』、と唱えます
この口上は、室町時代にできたらしい、ともいわれています
そして、自分の歳の数だけの豆を拾い食しますと
これから1年、病気にならないと言われます


また、関西地方の最近の習慣として
節分に、「太巻き寿司(切らないもの)を恵方にむかって食する(かぶりつく)といい」ともいわれます
これは、バレンタインデーのチョコレートと同じで
海苔屋さんが昭和30年代に考案したのが事の起こりとか・・・・
しかしこれが、100年も続けば(あと60年ほど経てば)、立派な風習と呼ばれることでしょう

風習は文化です、古より伝えられた習慣を守り、育み、後世に伝えるのが大切です
時には、時代に即した改革も必要です
かたくなに、旧態依然のやりかたに固執するのも、一方では必要なことでしょう


技術の伝承・・・・
日本の有機材を使用した建築物に対する、世界文化遺産に選定された理由の一つです
1200年もの間、伊勢神宮で行われている『遷宮』や建物の解体修理に、それが見て取れます
除去する、破棄する、破壊するなどの行為は簡単です
『守り伝える・・・・』、難しいですが、私たちに課せられた使命ではないでしょうか・・・・
今日のことば
603版:平成18年02月01日 水曜日
不苦者有智
遠仁者疎道(おにはそと:鬼は外)
(じんにとおきものは みちにうとし)
不苦者有智
(ふくはうち:福は内)
(くるしまざるものは ちあり)
節分になると
この言葉が浮かんできます
寒さを逃れ
暖房の効いた家の中にいますと
自然の移ろいがわからず
商品の中に季節を見つけるという
不思議な感覚にとらわれます
冬、山野の自然状況が厳しいときは
もっぱらベストシーズンにむけての
情報収集や資料整理が
辛草の山行の楽しみ方です
「ふくはうち:福は内」
ゴロあわせ、かもしれませんが
写真の中にも『福』がありましたので
皆様に、些少ではありますが
おすそ分けをさせていただきます
題して「山に福あり」・・・・
山行に見る 山に福あり
一緒にいってみたいなこんなとこ
みたいな
山葵の山行まっぷ
印の県に「目的地」があります
県名
京都
滋賀
「おにわ〜そと、ふくは〜うち」
子どものとき、節分が来ると『豆まき』をしたものです
最近のご家庭では
どのように行われているのかは知りませんが
商店では、店頭に豆と共に鬼の面が売られていることで
今年も、この時期が来た、「春が来た」と感づくところです

山仲間が、孫のお土産にと買ってこられた
「豆まきグッズ」を拝見しました
その中に
遠仁者疎道 不苦者有智」、と書かれた紙片がありました
編集子のメモにも、これに関する記載がありましたので
紙面を割くことにいたしました

【 不苦者有智(ちあれば くるしからず) 】
     どんな逆境にあっても
     智慧があればそれを乗り切ることができる
     だからこそ
     順境にあっても智慧を磨いておくことが大切である
                    ( 淡交社:禅語大辞典 )


これには、多くの知恵者が当て字をされています
その一例を紹介します
遠仁者疎道:遠仁者礎途
不苦者有智:不苦者迂智、不苦者闇智、富久者有智、
寺 紅葉 #01
撮影日:2001.11.19、(晴)

一番最初に訪れたのが
1997年(平成9年)でした
当時は
この柵も遊歩道もありませんでした
人の訪問が多くなることは
喜ばしい限りですが
反面、車の渋滞やゴミ問題など
意外な影響もでてまいります
共通のジレンマでもあります
大津絵の由来
大津絵は、寛永年間(1624〜1643)の頃より描き始められ、現在にいたっています。初期のころは、仏画より始まり、後に一般風俗が描かれるようになりました。言論の自由など、夢にも考えられなかった時代でもなかったので風刺画も多く描かれ、中には道歌なども付け加えられた教訓的な絵も描かれました。本来名もない画工達によって描き始められ、受け継がれて近年、郷土民芸大衆芸術として、多くの人々に関心を示されるようになりました。
               (大津絵の店 抜粋編集)

掲載の写真は
1997年に買い求めたもの(短冊)で
四代目高橋松山師の大津絵です
絵柄は『鬼の寒念仏(草体)』で
画賛は「大津絵の筆のはじめは何佛」
元禄四年に松尾芭蕉により作られた俳句だそうです
大津絵に出てくる「鬼」は
俵屋宗達による「風神雷神図屏風」にある雷が
大津絵にも影響を与えた可能性も指摘されています
瓢箪に書かれた「不苦者有智」
絵のモデルの鬼は「大津絵」の
『鬼の寒念仏』からアレンジされた絵柄(行体)と思われます
   この被写体は山仲間のM氏から
   提供をうけたものです
鶏足寺(旧飯寺)の紅葉
所在地:滋賀県木ノ本町

滋賀県湖北の紅葉の名所です
近場ですので
数度となく訪れています
然し
最近の情報社会の影響でしょうか
訪問者が増えています
被写体から人物を抜くのは
至難になってきました
寺 紅葉 #02
撮影日:2002.11.17、(晴)
寺 紅葉 #03
撮影日:2005.11.20、(晴)

この日は日曜日
人出が多いだろうな、と思いながらも
でかけてしまいました
30分ねばってようやくこのカットが・・・・
寿草 #02
撮影日:2003.03.18、(晴)
所在地:霊仙山山麓

春一番新年を祝う花として喜ばれ
別名ガンジツソウ(元日草)
福を招く、縁起の良い花として喜ばれ
福寿草の名がついたといわれています
寿草 #01
撮影日:2002.03.02、(晴)
寺 通天橋
撮影日:2002.12.10、(晴/曇)
所在地:京都市伏見区

京都の紅葉の名所の一つです
この橋の上から眺める
情景は格別です
この日は、稲荷山山行の
帰りに立ち寄りました
寺 窟門「通幽処」
撮影日:2005.03.07、(晴)
所在地:京都府宇治市

明朝様式の伽藍をもつ
黄檗宗の寺院です
この門は伽藍の特色のひとつ
山呼-リスト
閑話
笑う門には
来る
河豚は毒なり
は徳なり
古来より、人々は数々の
言葉遊びをされてまいりました
そのうちの二つがこれ
雑学・物知りとして
多くの方が頭の引き出しに
しまわれてきたものですが
昨今では、インターネットで
簡単に抜出すことができます
これまでの苦労は
一体なんだったんでしょう
でも、若いときに
頭の引き出しに入れたものは
忘れないといわれますが
老化が激しい今
引き出しの在処が不明で・・・・
※ご参考までに
このコラムは
管理人のひとり言です
黒や灰色の文字は
編集子のオリジナル
カラー文字は編集子所蔵
資料からの引用です
山呼らいぶらり〜