【 虎口を脱す(ここう を だっす) 】 ※虎口を逃れるともいう
  虎口を脱す:きわめて危険な場所や状態からやっとの思いで、なんとか逃れること
  虎口を逃れて龍穴(りゅうけつ)に入る:一つの難を逃れてさらに他の難儀に逢う事のたとえ
  虎口:恐ろしい虎の口。転じて危険な場所や状態のたとえ            ( 広辞苑 )

     虎口とは、文字通り「虎の口」ということで、非常に危険な状態のことで
     出典は 『荘子』(そうじ)ですが、その書の中で孔子が言ったこととして記してあります

  このトラという動物は、アジア東南部から東部にかけて生息するネ コ科トラ亜種の総称で
  アジアにおける食物連鎖の頂点とも言うべき大型肉食動物で、大きくてしかも凶暴
  こんな虎の口の前にいるのですから、文字通り、絶体絶命の状態であるわけです
  また、虎という動物は、生きている獲物に向かって、いきなり噛みつ くのではなく
  まず鋭い爪で相手にダメージを与えてから食らい付くので
  たとえ虎口を脱したとしても、瀕死の重傷を負っている可能性が高いといえます


通常の市民生活を営む上で絶体絶命※の状態になる、ということは考えにくいのですが
    ( ※絶体絶命:体も命もきわまるほどの、とうてい逃れられない困難な場合・状態にあること:広辞苑 )
あえて挙げるとすると、「自然災害」や「テロなど」もその要因とされるのではないでしょうか
懸命な諸兄は、虎口の側に近づく愚挙なんていたされないと思います
困難な場面に遭遇する前に、自重や退避をして災いから身を遠ざけようといたします
例外として、くだらないTV番組のディレクターが視聴率稼ぎに馬鹿なことを仕出かすくらいです
(そんなTV番組の視聴率を上げているバカ(辛草のこと)がここにいるのですから笑えます・・・・)
ところが、前出の「自然災害やテロなど」は、危険の予知や察知がとても困難です
「自然災害」においては、予知が多くの学者や研究者において進められていますが
残念ながら効果的な対策が打てず、災害が起こってからの対応に甘んじ
災害の結果を踏まえて、被害を少なくする対応・対策がとられているのが現状で
いわゆる、後手の状態です、災害の予知・察知の一刻も早い確立などが待たれます
一方、「テロなど:確信犯」においては、理性ある市民が防備をしていようが
そのスキを付いて、意図的に危害を加えようとするものですから、手に負えません
ましてや、関係のない人を窮地に追い込めるのが目的の一つであるとするのですから・・・・
「テロ」には「力」で対応するのが、現在の行われている手法のように見受けられますが
連鎖が連鎖を呼び、今の方法では解決できないことに、多くの方がジレンマを抱いておられます
私たちが、そんなテロの災難から身を守るには、一体どうすれば・・・・保険、地球脱出、????
「話し合い」などできるといいのですが、それは無理、だとすれば、どうすればいいのか思案橋・・・・
過去:自由とか人権とかが問われていなかった(主張できなかった)時代
力に勝ったものが弱者をしいたげる動物的な感覚があった時代(弱肉強食といわれる時)では
戦争がおこり、多くの人の上に「絶体絶命」がのしかかり、虎口を脱するのに必死でした
現在:化石燃料・資源が無尽蔵にあると信じ込んでいる時代
人類は文化的な生活を謳歌し、快楽をむさぼり、破壊をかさねてきました、そして利己主義の蔓延
近未来:やめる惑星=地球、「絶体絶命」の序章、一体誰が幸せを得る(感じる)のでしょう・・・・
人間の性癖として、金欲・物欲・権力欲・名誉欲・などなど・・・・
金さえあればなんでもできると錯覚をし、武器を持たせれば戦争をしたがる
権力を持たせれば民衆をしいたげ、褒め称えれば増徴する・・・・なんともしがたい生物です
絶対絶命の状態(虎口)は、否応無しに私たちの身の回りのそのスキを窺っています
「自然災害」はいざしらず、「テロなど」は人間の尊厳を第一義に考えれば解決の糸口が見つかる
との思いが浮かぶのですが、「テロなど」は、それを否定する人達なのですからいかんとも・・・・
宇宙的規模で考えれば一瞬の出来事、得るものは何もなく、失うものばかりだと思うのですが・・・・
人生(人類・人間)て悲しいものですネ、さびしいものですネ・・・・眠れぬ熱帯夜がまたやってきます
佐和山城址(佐和山)
山行日:2004.01.31、(晴)
所在地:滋賀県彦根市
 佐和山城は別名佐保城といい、その創築は鎌倉期に遡るといわれています。佐々木氏の一族佐保時綱が1190年代の頃に築いたといわれ、室町期には佐々木六角氏の重臣小川氏等の居城となり、戦国期には浅井氏が領有、1590年には石田三成が城主となりました。関ヶ原合戦で落城。後は井伊氏が入りましたが、彦根城築城により廃城となる。
観音寺山城 淡路丸(繖山)
(かんのんじやまじょう)
山行日:2001.12.03、(曇)
所在地:滋賀県安土町
 近江国主護職佐々木六角氏の居城であり、中世の代表的な大山城である。1335年に近江守護佐々木氏頼が築城。
標高432mに本丸があり、曲輪が山に散らばって配置されている大規模な山城である。
1568年、織田信長が入城
1582年、安土城とともに滅亡
写真は城郭の東側に位置する淡路丸です。
閑話
虎口:城は、軍事・政治の中心拠点であるので防御は厳重を極めました。出入りする将兵や荷物などをチェックするため、出入り口をなるべく小さく作ったことから「小口」といわれ、「虎口」と転化しました。虎口に建てられた建造物が城門にあたり、この城門は二次的な防御施設でもありました。(小学館:城郭と城下町)
遺跡調査で発掘された「枡形虎口」
鎌刃城址 枡形虎口
(無名峰)(かまばじょう)
山行日:2005.07.08、(曇)
所在地:滋賀県米原市
 築城年代は定かではないが、湖南と湖北の境目の城として応仁の乱の頃にはすでに築城されていたものと考えられる。代々堀氏が居城し、史実には1472年に登場する。堀氏は六角氏、浅井氏に臣従。姉川の合戦後、鎌刃城は1574年、織田信長の直轄城となり、その後まもなく廃城となった。
横山城址(横山)
山行日:2004.01.12、(晴)
所在地:滋賀県長浜市

1561年、小谷城主浅井氏の近江南進の要として築かれました。1570年、織田信長に反旗を翻した浅井長政は、信長とこの横山城の麓を流れる姉川を舞台に合戦(姉川の合戦)するが、敗れてしまう。 合戦で勝利した織田信長は、横山城へ木下秀吉が城代として入城し、小谷城の浅井長政と対峙、1573年、浅井氏滅亡によりこの城の役目も終わり、長浜築城を期に廃城となった。
※城跡・城址の解説文は各自治体の教育委員会等の説明・案内文および
  編集子所蔵の書籍等より抜粋・編集いたしました。また、記載の年代は
  和暦でしたが、和暦・西暦対照表(広辞苑)により西暦記載といたしました。
燧ヶ城(藤倉山)
(ひうちがじょう)
山行日:2004.07.03、(晴)
所在地:福井県南越前町
 この城は平家物語や源平盛衰記などで知られています。1183年、木曽義仲追討の為、平家は平維盛を大将とする軍勢10万の大軍を差し向け、義仲軍を追悼したが、その後、倶梨伽羅峠にて義仲軍が勝利し上洛を果す。南北朝時代1336年には、新田義貞が登場し、戦国時代1575年一向一揆の主戦場として、信長軍と対峙したと伝わる。
県名
印の県に「目的地」があります
山葵の山行まっぷ
山行に見る 城跡・城址
福井
滋賀
一緒にいってみたいなこんなとこ
みたいな
今日のことば
大嶽城址(小谷山)
(おおずくじょう)
山行日:2003.11.07、(晴)
所在地:滋賀県湖北町
 小谷山の最高所を占める。立地条件と土塁等の風化の程度、及び曲輪間の縄張りや普請の技法などの条件から推して、浅井氏初期の構築にかかるもの考えられています
長政の時代になってからは、小谷山の西半部に拡がる各尾根筋からの侵入に備える要的機能を持っていたと思われています。
なお、お市の方などが住まいしていた小谷城は東側の中腹にあります。
513版:平成17年7月14日 木曜日
虎口を脱す
一乗谷館(一乗城山)
(いちじょうだにやかた)
山行日:2003.11.14、(晴)
所在地:福井県福井市
 朝倉氏の館として、1472年にこの地に築かれ、背後の山には一乗山城が置かれていました。
この一乗谷一帯には、当時、有数の城下町が形成され、「北陸の小京都」として繁栄していたといわれます。
戦国大名として勢力を拡大し、栄華を誇ったのですが、1573年近江の浅井長政と同盟を結び、織田信長と戦って破れ、名門朝倉氏も滅亡しました。
戦争の防御施設のなかで
最重要施設であるのが城です
「人は城、人は石垣、人は堀」とは
武田節の一節ですが
人身掌握をあやまると
内からほころびがでてきます
権力者や為政者の欲と業とに翻弄され
民衆は右往左往させられるばかり
すべては
その犠牲の上に成り立っています
山に登ると、城あとに出あいます
石垣や土塁があるだけですが
現代の城は街中にあり
「歴史は繰り返される」と思うと
そら恐ろしくもなり、「ロマンですな〜」と
感慨にふけってもいられません
今回は「虎口」にちなみ
虎口の施設を持つ「城跡・城址」に
焦点を当ててみました
正面の山は伊吹山、山裾には北国街道が通っている
山呼-リスト
※ご参考までに
このコラムは
管理人のひとり言です
黒や灰色の文字は
編集子のオリジナル
カラー文字は編集子所蔵
資料からの引用です
杣山城址(杣山)
(そまやまじょう)
山行日:2003.07.12、(曇)
所在地:福井県南越前町
          旧南条町
 築城は鎌倉時代まで遡り、杣山庄の地頭瓜生氏による。
南北朝の争乱期には、越前の南朝方の拠点として、新田義貞・義助兄弟がこの城を拠点としましたが、北朝方によって攻められ落城。
戦国時代になると、朝倉氏の家臣河合宗清が居城、朝倉氏滅亡後、越前の一向一揆の徒が立て籠もったが、織田信長の越前平定の際に落城、以後この城は廃城になる。
山呼らいぶらり〜