源義経(1159〜1189)、平安末期の武将、義朝の9男
義経の前半生は謎が多く
少年時代を過ごした鞍馬山での生活も
ほとんど明らかではないらしい・・・

父である源義朝が平治の乱に破れて
平清盛に殺されたのが2歳の時・・・・
母常磐が京都の公卿と再婚したため
鞍馬寺に入れられたのが7歳のころ
            (11歳という説もある)・・・・

私たちのよく知っているお伽話のような
牛若丸(遮那王とも呼ばれていた)の活躍・・・・
お寺からも、不良少年で
困ったものだと思われていたらしい・・・・


☆ 源九郎義経の誕生
  僧侶になるのを嫌がって鞍馬山を出る
  みずから元服式をあげ
  奥州平泉に走ったのが16歳のころ・・・・
  22歳の時、頼朝が伊豆に挙兵
  黄瀬川で兄頼朝と対面(頼朝とは異父兄弟?)

☆ スター「源義経」誕生
  一ノ谷、屋島、壇ノ浦、の華々しい活躍は
  義経の天才的なひらめきか・・・
  爆発的な何かを持っている
  
これがスターというならば
  それの歴史上最初の人物か
  一夜明ければ自分は大変な名士(有名人)
  ジャパニーズ・ドリーム・・・・

☆ 悲劇の始まり
  平家討伐の立役者としてもてはやされる
  京都で検非違使に任ぜられ、昇殿を許される
  京都の勢力が利用したのだろう
  これは鎌倉の兄、頼朝の意志に背く行為・・・・
  関東武士の基盤をゆるがす
  頼朝の立場からすると、義経は「政治感覚の欠除」である
  京都の傀儡
(かいらい)として利用されることに気がつかない
  義経27歳
  頼朝の怒りを受け、鎌倉に入ることができなかった
  このときに有名なのが、世に言う「腰越状」

☆ 義経伝説のはじまり
  29歳の時、平泉に藤原秀衡を頼る
  歌舞伎「勧進帳;安宅の関」のくだりはクライマックス
  30歳、頼朝:藤原泰衡に義経追討を命ず
  31歳、奥州平泉、衣川の館にて自殺

後世、人々は、頼朝の政治的立場を理解するよりも
頼朝によって滅ぼされた義経に対しより多くの同情を注ぎ
英雄として伝説化されました
『判官びいき』として、今も多くの人の心の中にいきずいています
301版::平成15年3月25日 火曜日
三仏寺 奥の院道
山行日:1994.06.11、(曇)
所在地:鳥取県東伯郡三朝町

三仏寺は山陰地方の温泉地で有名な
三朝温泉の近くにあります
三徳山の山麓にある古刹で
奥の院には
投入堂(国宝)があることでも知られます

この写真はその投入堂を目指し
奥の院道を歩いているところです
横向きを縦にしているのではありません
山道というより
崖と表現したほうがいいくらいです
数年に一度は遭難者が出るともいわれる
厳しい参道で
雨で道が濡れているときは
入山が許されません
でも、この先はとてもすばらしいところです
後日、紹介させて頂きます
おから風味の 義経伝説
不破関
東山道
西近江路
 (北陸道)
淡 海
(琵琶湖)
北国街道
不破
鞍馬
(中仙道)
※このマップは編集子のオリジナルです
  なお、道路は現在の国道・高速道を表示
関ヶ原(不破) 常磐御前の墓
伝説では
『東国に走った義経の行方を案じ
後を追ってきた母親:常磐御前は
土賊に襲われて息をひきとります
哀れに思った里人がここに葬り
塚を築いた』
とあり
今も供花が絶えません
伊 賀
山 城
鏡宿
屋久島 大株歩道
山行日:2002.04.22、(曇/雨)
所在地:鹿児島県屋久島

ご存知、世界自然遺産
「屋久島」にあります
この道は縄文杉への
ハイキングコースにあり
登山口から約5時間の所
ここを過ぎれば
縄文杉に出会えます
でも、5時間って
簡単に言うけど
往復で考えると10時間
ちょっと行くのを
考え込む人があるのでは
鞍馬寺 奥の院道
山行日:1993.07.03、(曇)
所在地:京都市左京区鞍馬本町

鞍馬〜貴船に向かう山道にあり
信仰の道でもあります
ハイキングコースにもなっていて
大勢のハイカーで賑わっています
昼なお暗い深山幽谷の所
今にも天狗が出て来そうです
一人ではちょっと気味が悪い
とベソをかく人もあるのでは・・・・
鳳来寺 奥の院道
山行日:2002.07.06、(曇/雨)
所在地:愛知県設楽郡鳳来町

峰の薬師の別名で知られ
多くの参詣者が訪れます
仏法僧でも知られています
また、1425段の心臓破りの階段が
あることで恐れられています
もちろん車であがれるのでご安心を
山には断崖がいたるところにあり
スリルが味わえることを請合います
木の生い茂る山道を歩くと
時々木の根っこが
地表に現れている場所があります
通常、木の根は地中にはびこり
土中の養分や水分を幹に吸い上げる
役割を果たしています
しかし
岩盤や覆い土が少ない場所などでは
当然のことながら根が露出し
木が倒れないよう岩に絡んだり
地表を這って
大地にしがみつくことになります
ここに掲載いたしました写真は
辛草がこれまでに山行した所です
それぞれの場所は
いずれも
地形的に厳しいところにあり
神社や仏閣、さらには
大自然の信仰と結びついているのも
頷けるところです
このようなところに出会った場合は
根っこをいたわるように歩きましょう
くわえタバコなどもってのほか、と
山の神様からおしかりを受けるかも
鹿児島
京都
愛知
鳥取
山葵の山行まっぷ
印の県に「目的地」があります
県名
今日のことば
鞍馬山 義経堂
地表を這う無数の根っこ、うっそうと茂る杉木立
牛若丸はこんなところで少年期を過ごしました
源 義経にかかわる近江
本槁編集にあたっては
次の書籍・文献を参考にしました
判官びいき
【 判官びいき(ほうがんびいき) 】 
  源義経を不運・運命の英雄として愛惜すること
  強者;源頼朝、讒言者
(ざんげんしゃ)梶原景時に対し
  弱者:検非遺使左衛門少尉※
(けびいし さえもんのしょうじょう)源義経の方をひいきにする心情
  一般的には、第三者による弱者に対する同情やひいきをいう
  ※尉(じょう)のことを『判官』という、判官とは現在の裁判官のこと、特に源義経のことを指す

実際の義経についての資料は少なく
色白だが背は低く、出歯の醜男(ぶおとこ)と伝えられます
その武勲と不運から、笛をかなで歌を詠む美男の貴公子像が創作されていきました
後世の歌舞伎「勧進帳」や浄瑠璃「義経千本桜」などが
『判官びいき』を醸成したものとされています
赤糸縅胴丸鎧
(伝源義経奉納)
近江 東山道 鏡宿 義経元服池
鞍馬山で修行を積んだ義経(牛若丸)は
金売り吉次につれられて
奥州へ向かう途中、鏡の宿に泊まり
この地の池の水で前髪を落として元服
すぐ傍を国道8号が通っています
現在土地の人々の手によって
「源義経元服池」として整備をされています
逢坂関
愛発関
東海道
美 濃
余談
ハイキング中に
ひょんなことでパーティーの一員から「平家物語の5節目がわからなくなった」と
突拍子もない言葉が飛び交ったことがある
誰も答えられず、他のパーティー全員が知識不足を露呈したものでした
当然のことながら後日図書館へ
ここに、編集子のメモ帳にメモしてある部分だけを掲載させていただきます


      『祇園精舎の鐘の声  諸行無常の響きあり
       沙羅雙樹の花の色  盛者必衰のことわりをあらわす
       おごれる人も久しからず  ただ春の夜の夢のごとし
       たけき者もつひには滅びぬ  ひとへに風の前の塵に同じ
                               ・・・・・・・・・・・    』 (平家物語)

         ※・・・・後の続きは、筆者同様図書館へどうぞ・・・・
      
若 狭
鈴鹿関
閑話 この当時
近江路の湖東を通る幹線を東山道と呼ばれました(現在の国道8号)
後に中仙道と呼称が変更になり
江戸時代に街道整備がなった後に
中山道と「仙から山」に改められた
現在、2つの道標があるのは
このためです
ただ、幕府の強い管理下において
「仙」の文字が残っているのは
強権にあらがった民衆の
反骨精神の現れかもしれません
そんなことを考えますと
歴史はロマンがいっぱいつまった
玉手箱といえるかもしれません
山行に見る 木の根道パート1
一緒にいってみたいなこんなとこ
みたいな
山呼-リスト
※ご参考までに
このコラムは
管理人のひとり言です
黒や灰色の文字は
編集子のオリジナル
カラー文字は編集子所蔵
資料からの引用です
余談 「判官」:何故この言葉が登場したのかは、「プロフィール」をご覧いただいた方にはお解りだと思います
みなさまよくご存じの源義経、『判官びいき』のコラムを作成するために、『おから』として出てきましたもの
(ひもといた資料)を、そのままにしておくのもと思い、その一部だけではありますが掲載させていただきました
博学の先生方ばかりで恥ずかしい限りではありますが、間違いがありましたらご教示をお願いいたします
なお、これは平成15年3月25日作成したものを再編集したものです          平成17年12月27日、編集子
山呼らいぶらり〜