星ヶ峰 (ほしがみね)
八幡神社跡・星ヶ峯城址
山頂に向かって約100m、旧い参道を辿ると、八幡神社の旧跡に至ります。さらに、約100mで星ヶ峰山頂の星ヶ峯城址に至る。八幡神社は、小字出町の人々の信仰を受けていたが、明治44年に大笹原神社に合祀された。しかし、宮跡では、今も出町の人々がお祀りしています。
星ヶ峯城は、鎌倉時代、鏡久綱の居城で星ヶ崎城と称した。承久の乱で鏡氏は滅び、その後、馬淵氏、そして六角義賢が城主となりました。その頃から、星ヶ峯城と呼ぶようになった。戦国時代、織田信長に敗れ、現在残礎の石垣を残すのみで、頂上には竜王町による「星ヶ崎城址」という高さ約2mの石碑が建っています。
                     (野洲市大篠原自治会、大篠原郷土史会  登山口看板)
星ヶ峰
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伊吹山
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霊仙山
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御池岳
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主郭の南側にある石版

意図的に加工された石版です、その前方には穴窪があります
用途はわかりませんが、気になる築造物です・・・・
撮影場所:竜王町鏡地区、星ヶ峰から東に約0.7km
西光寺跡の旧跡を経て山頂に至ります
主郭跡に立つ「星ヶ崎城址」の石碑
中仙道
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繖 山
観音寺城址
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安土山
安土城址
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伊庭山/瓜生山
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瓶割山
長光寺城址
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岩倉山
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荒神山
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竜王かがみの里道の駅の南西にある星ヶ崎城址登山口
西側石垣を南側から眺める
西側石垣を北側から眺める
鏡 久綱
鎌倉時代の武将。佐々木定重の子。承久(じょうきゅう)の乱では、
(鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた兵乱)、後鳥羽上皇方の藤原秀康の軍に属し、美濃(岐阜県)摩免戸(まめど)で北条泰時のひきいる幕府の大軍に対抗。秀康軍がたたかわずして敗走するなか、幕府方の大江佐房(すけふさ)と戦って敗れ、承久3年6月6日自刃したため家系は絶えた。京極宗氏の子貞氏が鏡氏の名跡を継ぎ、鏡氏は以後代々佐々木氏の旗頭を勤めました。                                      (wikipedia、他)
ほしがさきじょう
星ヶ崎城
別 名 鏡山城   遺構等 石垣、曲輪
地  域 25es:野洲/北東W   現 状 山林
Mapion 滋賀県竜王町鏡/野洲町大篠原   築城者 佐々木氏旗頭鏡氏居城※1
標  高 220m/110m=110m   築城年 不明※2
訪城日 2010年02月14日(晴)   形 式 山城
山悠々 星ヶ峰/鏡山   規 模 東西200mx南北200m
概要 佐々木氏の本城である観音寺城の支城として築城されたとされています。主郭部には緻密に積まれた石垣が残ります。北側を通る東山道(後の中山道)を見晴らすことが出来ます。
※1滋賀県安土城郭調査研究所による「淡海の城」の解説による
※2地元郷土史会では鎌倉時代に鏡久綱が居城とあります
参考:鎌倉幕府滅亡1333年、広義の室町時代1338-1573年
星ヶ崎城址
星ヶ崎城址は、鏡山から派生する丘陵先端尾根頂上に位置し、長さ35m、高さ1〜2mで、
3〜5段の石垣と、反対側に少しの石垣が尾根の南西上部に残っています。
周囲の地形状況から、この石垣が残っているところは、城の「主郭」部分にあたり、規模は現状から、幅約20mx縦約35mと推測されています。   (竜王町教育委員会:現地看板)
主郭の南端から
一段下がった郭跡
星ヶ崎城址:星ヶ峰山頂(標高:220m)から、樹間からの北側展望
旧東山道(旧中山道、国道8号)側の
星ヶ崎城址登山口
上部下段郭跡の側面を西側から眺めています