さわやまさんざん ルート 鳥居本公民館(13:45)〜太鼓丸(14:25/15:05)
〜佐和山頂上(15:20)〜弁天山(15:40)
〜大洞山(16:00/16:10)〜鳥居本公民館(17:20)
佐和山三山2006 シュミレーション
地  域 25zn:彦根東部/南西N 概要 彦根北東部に山塊をなす佐和山(標高:232.5m)、弁天山(標高:196m)、大洞山(おおぼらやま、標高:211m)が山並みを形成しています。この三山を称して、佐和山三山と編集子が便宜上命名しました。佐和山は、石田三成の居城としても知られ、山麓には井伊家ゆかりの寺院や神社が点在しています。最北部にある峰は、室町期に「物生山城(むしやまじょう)」という城がありました。現在は堀切などの遺構だけで、工作物は何もありません。おそらく地名か山の名前を付けられたものだと思われます。それから察すると、峰の名前は「物生山」ということになるのでしょうか。本hpでは、物生山として整理いたします。展望は、佐和山山頂と物生山中腹から可能です。山並みの東に、名神高速道路、新幹線、そして国道8号と近江鉄道が佐和山の下をくぐり、西側にはJR東海道本線が通っている交通の要衝でもある、歴史に彩られた山塊です。
Mapion 滋賀県彦根市
標  高 233m/90m/=143m
距  離 約8.0km、斜度:max23°
体力度 27P、☆
山行日 2006.04.27、(晴)
形  態 日帰り、1名
時  間 所要03:35/歩行02:45
アクセス 自家用車、00:10
備  考 大手口道:登山道なし
神の岩(仮称※)
物生山の中腹にある岩
曰くありそうなものですが
説明文がありません
周囲は垣がめぐらされ
正面入り口には
鳥居が組まれて
両脇には石灯篭まで
神格化されたもののようです
このあたりまでが
城の遺構として
文化財の保護下にあります

※詳細が判明した折には
 いわれを記したいと思います
大洞山
  ↓
佐和山
  ↓
物生山城跡
  ↓
奥に弁天山
  ↓
菖蒲嶽城跡
    ↓
向 山
  ↓
男鬼山
  ↓
男鬼峠
  ↓
霊仙山系の
一部が覗く
  ↓
八葉山
  ↓
鎌刃城跡
  ↓
望湖堂↑
閑話
物生山城に関して、伝承や記録は無く不明だといわれています。物生山城の存在については、
@地元領主が築城、A佐和山城の出城、B織田信長の佐和山城攻め時の陣城、などと考えられています。現在では、B項の織田信長が築いた陣城ではないか、との考え方が一般的のようです。その根拠となるのが、信長公記とされています。
物生山は佐和山城の山塊の北端部、宮田町物生山の西背後の山上にありますが、ここに城跡が有るとの記録は見当らないので、物生山城とはあくまで仮称とされています。

現在の遺構は堀切、土橋、腰郭、犬走、竪堀などで、工作物は現存していません。
竜王神社のいわれ
明和年間(1764〜1772年)、物生山教専寺の鐘楼を建立しようとした村人達は、弁天山より石垣に使用する石を運び出しました。頂上近くにある大石を掘り起こそうとすると、作業しているものが急に腹痛をおこし、どうしても作業が進まない。あるときは湯の雨が降り、蛇が現れたり、不思議なことが続きました。村人はいたく悩み、これは竜神ののりうつった石でないかと思い、石のまわりに玉垣をつくり、周囲を神域として祀ることになりました。(神の岩の真相
       2006.03.09、追記)
山頂から南側を見つめました
手前の小高い峰は
彦根ゴルフ場
右側に彦根市街が広がります
三成もこの景色を
眺めていたのでしょうか
実際は、豊臣家五奉行として
ほとんど大阪城に
つめていたと思われます
閑話
湖国近江は古くから開け、都(京都)に近いことから、多くの為政者の関心を集める所でした。近江にも、都が置かれたこともありました。そのためでしょうか、古墳や城跡が数多くあります。小高い山は、ほとんどが古墳か城跡であるといっても過言ではありません。今回の山行でも城址は、4箇所も示すことができました。
佐和山山頂からの展望
前方の山塊はこれから進む
弁天山と大洞山です
遥かに伊吹山が霞んでいます
中央右に塔がありますが
昇降機製作会社の
エレベーター研究塔です
工事中で
2006年06月竣工予定です
高さは175mもあり
佐和山よりも高くなります
ルート・シュミレーション はこちらから
山ある記「佐和山2004」もご覧ください
「グループや団体の登山者は事前に許可を得てください」
というもの
各地で、植物の乱獲やゴミの放置が問題になっています
ここまできた・・・・という感じです
私達のマナーが問われています

「取るのは写真だけ、残すのは足跡だけ」
この言葉、大切にしたいものです
弁天山(べんてんやま、標高:196m)
展望はありません
山頂から弁天山に向かう尾根道です
ミツバツツジが気持ちを高めてくれます
弁天山
  ↓
大洞山
  ↓
伊吹山
  ↓
この奥に物生山城跡
      ↓
閑話
関が原の合戦後、軍功により、井伊直政が佐和山城に入城。翌年戦いの傷が元で没した直政に変わり、家督を継いだ直勝が、新たに金亀山(現在の彦根城)に城を築くこととなり、佐和山は廃されました。このとき、城の建物は取り壊され、彦根城の部材となり、石垣の石までが掘り起こされて彦根城に運ばれました。不要なものは徹底的に破壊されました。その裏には、旧領主である石田家に対する領民の思いを断ち切る狙いがあったと伝えられています。
佐和山城本丸跡
「佐和山城址」の石碑が建つ
佐和山山頂(標高:232.5m)
三等三角点、点名:石ヶ崎
現存する佐和山の遺構は
山腹に残る江戸時代造立の
「石田群霊碑」と
中腹にある「千貫の池」
そして、この石垣
のみといわれています
斜面の上は本丸です
閑話
佐和山城は別名佐保城といい、その創築は鎌倉期に遡ります。佐々木氏の一族、佐保時綱が建久の頃に築いたといわれます。室町期には、佐々木六角氏の重臣小川氏、のち磯野氏の居城となり、戦国期には浅井氏の領有となりました。本能寺の変後、堀秀政や堀尾吉晴らが入城、天正18年には、小田原攻めの軍功により、石田三成が城主となりました。関ヶ原合戦で、落城後は井伊氏が入りましたが、彦根築城により廃城となりました。
唯一残された石垣
    ↓
道なき尾根をがむしゃらに登ってゆくと、関ヶ原の戦いの折に悲劇が起こった女郎谷の反対の崖縁にでます
更に急な斜面をよじ登ると、太鼓丸にでますさらに尾根上を、国道(佐和山トンネル)が貫通している上まで歩いてみましたが、あたりは樹木でおおわれ展望はありません
太鼓丸から下りてきました
カメラの位置は
現在のハイキングコース(国道8号)から
登ってくる道と、ここで出会います
大手口を進むと、正面に
佐和山山頂が大きく現れます
今は、登山道はなく
森に吸い込まれて近江鉄道の
線路に突き当たります
以降、山上への道はなく
なかば強引に登ってゆきます
目的は太鼓丸のピークです
名神高速道路下からの山容
前方の家並みは
旧中仙道に沿った家並みです
昔であれば
佐和山の城下町
と言った所でしょうか
北の峰の最高所、アンテナが立っています
米原方面から佐和山三山一帯を望む
物生山中腹からの展望、彦根東部山地一帯です。江戸時代、中仙道が右から禿山の下まで進み
望湖堂に向かって山に入ってゆきました。その時代、前面の平野部は、琵琶湖の水面でした
神の岩見晴場からの北側展望
神の岩のあるところは、樹木が切り倒され、非常に展望が利きます
手前に、大きく円弧を描いているのが、JR東海道本線(びわこ線)
中央に東海道新幹線が通っています
左側の建物群に米原駅があります
正面奥には伊吹山が大きな山容を誇示しています
北の端の峰に入ってきました
明るい方向に降りる道があります
この道は物生越えと呼ばれるそうで
佐和山城時代には弾薬などが
運ばれた道ではないかとも言われています

これから右側にコースを取り
北の峰の最高所(標高:約190m)に向かいます
このあたり一帯は、室町期に
「物生山城(むしやまじょう)」といわれる城がありました
↑磯山/大洞山・佐和山↓
宮田山麓→
大洞山(おおほらやま)から降りてきました
歩きやすい尾根が続きます
大洞山山頂に向かう階段
綺麗に整備されています
大洞山(標高:211m)へは
小さなアップダウンがあります
女郎谷
関が原の合戦において
ここで悲劇がおこりました
多くの女性がこの下の谷に
身を投じたと伝えられています
佐和山城の表玄関
大手口です
正面は本丸のある山頂
太鼓丸は左手の高台の奥
右手は三の丸
歩ッ歩ッ歩:山もゆる、一歩一歩の山あるき
グループ登山・団体入山をされる方へ
2007.06.01、現在
山聲-TOP
山悠遊-滋賀北鈴鹿