おだにやま ルート 伊部登口P(09:50)〜須賀谷〜峠登山口(10:45)
〜南東尾根・岩稜〜大石垣〜山王丸(11:50)
〜三角点・大嶽城址(12:25)〜伊部P(14:00)
小谷山2007 シュミレーション
地  域 25n:虎御前山/北西S 概要 ご存知、戦国時代に築かれた浅井氏の城跡。山頂は大嶽(おおづく)と呼ばれ、大嶽城があったと印されています。山麓には、浅井氏三代を祀る小谷寺があり、静かな佇まいで、紅葉時期には堂宇を染め上げます。山頂は雑木が茂り、視界は木の間越しからですが、己高山や山本山などが垣間見えます。往時は、山裾を通る北国街道に、睨みをきかせていたのでしょう。登山口は、@小谷城址のある南尾根筋(追手道:伊部登山口)と、A清水神社のある南西尾根、B清水谷、C須賀谷の南東尾根、D清水谷北尾根(越前忍道)、E北西尾根(下山田)などがあり、主に@〜A若しくはBのコースが一般的です。今回のコースは、須賀谷温泉の峠からC南東尾根を伝い、@コースの山王丸から山頂を経て、南西尾根を降ります。南東尾根は、一部変化に富んだ岩稜となり、伊吹山系の眺望が楽しめます。また、西池は野鳥の観察場として隠れた穴場です。
Mapion 滋賀県湖北町/浅井町
標  高 495m/100m=395m
距  離 約8.5km、斜度:max29゜
体力度 36P、☆☆
山行日 2007.09.11、(晴/曇)
形  態 日帰り、1名
時  間 所要04:10/歩行03:40
アクセス 自家用車、00:50
備  考 南東尾根:岩滑落注意
ルート・シュミレーション はこちらから
小谷城攻めに当たって、木下秀吉隊は清水谷から
本丸(長政)と京極丸(久政)の間に攻め入り両館を
分断し、落城への端緒をきりました。それがこの谷
小谷山山容:山麓町道から清水谷方面を見つめます
小谷山山頂
大嶽城址
 ↓
本丸付近
この奥に京極丸
   ↓
金吾丸付近
清水谷
  ↓
福寿丸付近
     ↓

伊部林道
山麓からの伊吹山
←小谷寺
雲雀山
  ↓
伊吹山
 ↓
雲雀山
  ↓
山麓からの小谷山
小谷山山頂
  ↓
福寿丸付近
   ↓
山崎丸付近
   ↓
受水槽
清水神社
 ↓
山麓からの虎御前山
山麓には
北陸自動車道
国道365号が通っています
13:45 清水神社参道:町道出合
本丸付近
   ↓
清水神社のある南西尾根登山口
    ↑
  登山口
ここを右に回りこむ
清水神社→
姉川の合戦後
(元亀元年(1570)6月28日)
武田信玄の死去や足利義昭を追放することにより、浅井攻めに集中できるようになりました。
それにより、織田軍は5万人の軍勢に増強され、天正元年(1573)八月、「小谷城」は織田勢の大軍に包囲され、浅井長政は8月29日に自刃
織田信長の天下取りが前進しました。
受水槽のあるところからの虎御前山山容
標高:140m付近
標高:200m付近からの南側展望
正面に虎御前山
ここに織田軍が布陣し
山崎丸の朝倉軍と対峙しました
山崎丸から少し下がった所からの琵琶湖
西側展望、標高:200m付近
山本山
 ↓
竹生島
 ↓
山崎丸址
福寿丸
小谷城の本丸などの主要遺構と違い土塁を高く築き複雑な構造になっている。
元亀三年(1572)八月、朝倉義景が加勢に来た時に築いたと考えられる(立札)
13:05 福寿丸
福寿丸/山崎丸↑
(南西尾根)
←清水谷
↓大嶽城址
己高山
  ↓
山本山
竹生島
   ↓
  ↑
山田山
横山岳方面
     ↓
金糞岳方面
 ↓
大嶽城(おおづくじょう)
「長亨年後畿内兵乱記」によると
大永五年(1525)には、小谷城がすでに築城されており、小谷城が現在の本丸のある尾根ではなく
大嶽であったことが知られる。大規模な砦で、遺構をみると、本丸・山王丸・福寿丸等の小谷城の遺構と比較して土塁の作り方などが古い。天正元年(1573)8月13日大嶽城は朝倉氏の援軍が守備していたが、大嶽の北にある焼尾丸を守っていた浅井氏の家臣浅見対馬守が織田方に寝返り、織田勢を手引きして攻めたため落城した。(立札)
山頂への登山道(階段)
↑小谷山山頂/大嶽城址
←清水谷
↓山王丸
←清水谷
↓山王丸
  小谷山山頂/大嶽城址↑
越前忍道(水谷北東尾根)→
12:00 清水谷分岐
六坊
二代藩主浅井久政の古文書に「當城搦手」と書かれている
久政は江北支配を進める上で軍務や政務を司っていた六つの寺院が散在して不便であったためにここに集めたと言われる
また、小谷城跡絵図には、六坊から発する山続きの道を「越前忍道」と記されている(立札)
  鳥越峠
この奥に金糞岳
    ↓
伊吹山
  ↓
奥伊吹
ブンゲン山系
 ↓
七尾山
 ↓
山王丸
山王権現(現小谷神社)の祀ってあったところ
標高:395mの高所にあり、詰ノ丸と思われる
東南部の巨石による野づら積み石垣(大石垣)は興味がつきない遺構の一つである(立札)
11:50 山王丸跡
南東尾根と伊部尾根との合流点
山王丸の虎口にあたります
11:45 大石垣
石垣のうえに山王丸があります
↑山王丸/京極丸↓
       伊部登山口↓
大石垣/南東尾根→
須賀谷の峠登山口からの南東尾根コースは、概要に記載の@〜Eコースのうち、上りコースとしては、登山口を除き踏み跡もしっかりあり、変化に富んだコースです
 
西 池
伊吹山↓ 
七尾山
 ↓
↓奥伊吹
カナ山
  ↓
金糞岳方面
 ↓
 
須賀谷
雲雀山
 ↓
姉 川
 ↓
横 山
 ↓
元亀元年(1570)6月28日
姉川河原で織田・徳川連合軍2万8千人と、浅井・朝倉連合軍1万8千人が、姉川を挟んで対峙。戦闘は平地戦で、戦いは織田軍が勝利し、姉川の戦闘は一時、停戦状態になりました。当時、浅井軍はこの合戦を「野村合戦」と呼び、朝倉軍では「三田村合戦」と称されたようです
『信長公記』などには、合戦の記述があるようですが、簡潔な内容にとどまり、合戦の詳細については不明な部分が多いようです。なお、「姉川合戦」というのは、合力した徳川軍の呼称といわれます。
東南尾根の岩稜、標高:250mから300m付近
片桐且元は、関ヶ原の戦い後
秀頼を補佐し、豊臣氏と徳川氏の対立の回避に奔走するも、豊臣氏から追放。大阪の陣では徳川氏に味方(秀頼除名嘆願の意思?)するも裏切り者と見られる
大阪夏の陣後、突然の死亡(病気、責任を感じての自殺とも?)
忠・不忠の視点で論じられる人
            (Wikipedia)
須賀谷地区から
西池(池奥町)に至る峠
虎御前山
 ↓
片桐且元は須賀谷の浅井氏配下の小領主:片桐直貞の子として生まれる
小谷城落城までは浅井氏方として戦う
長浜時代の羽柴秀吉の家臣として
石田三成らとともに仕える。

登山口
10:45 南東尾根 登山口
須賀谷からの小谷山伊部尾根(南尾根)
山王丸跡
  ↓
南東尾根
岩稜(展望良し)
 ↓
京極丸
南尾根
 ↓
須賀谷はかつて、浅井氏の平時のための屋敷が建てられていたところです。温泉があります
また「賤ヶ岳七本槍」の一人、片桐且元(かたぎりかつもと)の出生地としても知られています。
小谷山の山麓に建立、真言宗豊山派の寺
開基:泰澄大師、奈良時代に山岳仏教の霊場、小谷山六坊の一つで常勝寺(じょうしょうじ)と称し、長らく荒廃していたが、室町中期に改修。戦国時代に浅井氏のつながりを得て小谷寺と改名。浅井家滅亡とともに消失、豊臣秀吉により現地に再建(観光協会)
伊吹山
  ↓
山の彩り:6枚
09:50 伊部登山口 白く輝いているところが駐車場
     山麓にはソバ畑が白い花をつけていました
小谷山山麓にて
(滋賀県湖北町)
暑さが残る210日過ぎ、空模様はいいのですが午後から下り坂の予報。短時間で伊吹山が見える山を、ということで小谷山を選びました。何度も訪れていますので、ルート探索を兼ねて、前回と違ったルートを歩いてみました。岩稜もあり展望も抜群のルートでした。が、やはり暑さには・・・・
撮影日:2007.09.11

01 ソバ
02 ソバ
03 ソバ畑
04 アレチヌスビトハギ
05 アレチヌスビトハギ
06 アレチヌスビトハギ
14:00 伊部登山口 到着、山麓のソバ畑
山崎丸
元亀三年(1573)七月、朝倉義景は浅井長政に加勢するため、一万五千の兵を率いて一乗谷を出陣し、八月二日には最前線の知善院尾(山崎丸)に布陣し、虎御前山の織田信長と対峙した。山崎丸はその際に築かれたと考えられる(立札)
13:20 山崎丸
福寿丸跡
12:40 三角点、南西尾根下山開始
小谷城山頂からの奥琵琶湖、西側展望
小谷城山頂からの北側展望
12:25 大嶽城址
12:20 小谷山頂上、三等三角点:大岳
             標高:494.5m
六坊跡
↓山王丸/清水谷分岐↑
山王丸から大嶽城址への尾根道(急坂)
小谷山山頂へ
   ↓
山王丸から
小谷山山頂:大嶽(おおづく)城址を見つめます
岩稜からの眺望
姉川の合戦の古戦場が一望できます
南東尾根、登り始めの展望所
片桐且元生誕地の碑(1556〜1615)
←木之本
10:15 須賀谷分岐
    国道365号との分岐です
↑須賀谷/関ヶ原→
小谷寺
山王丸からの伊吹山
山麓からの伊吹山
歩ッ歩ッ歩:山もゆる、一歩一歩の山あるき
小谷寺への参道
東南尾根岩稜からの展望
山聲-TOP
山悠遊-滋賀湖北