探訪記-福井越前
歩ッ歩ッ歩:山もゆる、一歩一歩の山あるき
かねがさきぐう 概要 金崎宮は、建武中興十五社の一社で、旧社格は官幣中社。祭神:恒良親王と尊良親王。後醍醐天皇の皇子である恒良親王と尊良親王を守護した新田義貞が、足利尊氏と戦った古戦場で、明治時代になり、両親王がまつられています。明治26年、町内よりの出火により本殿以下三棟を焼失、日露戦争後の明治39年正還宮再建、この時本殿は現在の地に遷座、建築様式も流造より神明造に改められた。恋愛祈願や、花見どころとしてにぎわいます。
金ヶ崎宮
地  域 18s:敦賀/北東NW
Mapion 福井県敦賀市
山行日 2015.05.27、(晴)
手水舎
幣殿正面
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参道、右の鳥居は愛宕神社
二の鳥居
木製玉垣
金ヶ崎古戦場に立つ顕彰碑
左近衛中将新田義貞當元弘之初殪北條高時於鎌倉自足利尊氏叛〇族勤王
                 ・・・・・・・中略・・・・・・・
人謀建石誌某事跡来徴文於予因気之以與焉   明治十一年八月十二日
 滋賀県令正六位籠手田安定撰 従五位熊谷武五郎〇〇〇書
※ 明治4年(1871)12月31日 府県の再編により敦賀県が設置され県庁所在地となる
  明治9年(1876)8月21日 敦賀県が分割され、滋賀県に編入される
  明治14年(188)12月13日 滋賀県から分離され、福井県に編入される
  熊谷竹五郎:明治の官吏・実業家、
本殿
摂社 衣掛神社:祭神は金ヶ崎の戦いで自刃した人たち
天筒山展望台からの金ヶ崎宮俯瞰:森の中の中央に本殿甍が見えます
拝殿、奥に幣殿と本殿
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南北朝争乱:金ヶ崎の戦い始末

南北朝の始まり
1336年に後醍醐天皇が吉野に遷り朝廷が京都(北朝)と吉野(南朝)に分裂してから
   (始期は後醍醐天皇による鎌倉幕府倒幕の企てが表面化した元弘の変(1331年)や
        鎌倉幕府の滅亡と建武の新政の開始(1333年)とすることもあります。)
建武の新政にそむいた足利尊氏が京都に入り、持明院統の光明天皇を立て、北朝を開いたのに対し、大覚寺統の後醍醐天皇は吉野に逃れて南朝を開きました。
        (第二次大戦以前は南朝を正統とする立場から「吉野朝時代」と称されました。
         現在、宮内庁をはじめとし、天皇の代数を南朝で数えるのが主流になっています
         ということは、南朝を正統としていることに・・・・)
明徳3年(1392)吉野の後亀山天皇は将軍足利義満の勧めで京都に帰り、北朝の後小松天皇に譲位する形で南北朝の合一が行われました。
この間における、南朝北朝の対立を背景とした全国の武家、荘園の戦いです。

金ヶ崎の戦いは、南北朝時代の1336年(延元元年/建武3年)から翌1337年(延元2年/建武4年)にかけて、越前国金ヶ崎城に籠城する新田義貞率いる南朝方の軍勢と、それを攻撃する斯波高経率いる北朝方の軍勢との間で行われた戦いです。

延元元年(1336)5月、九州で再挙した足利尊氏が京都に攻め寄せると、後醍醐天皇はこれをして比叡山に避けられた。
同年10月に至って一旦尊氏の請を容れられ、京都に還幸されることになり、その際天皇は、別に新田義貞に命じ、尊良(たかなが)親王(後醍醐天皇一の宮)・恒良(つねなが)親王(後醍醐天皇皇太子)を 奉じて北陸道の鎮撫、官軍再興のために下向せしめられた。
新田義貞一行は、雪中の木ノ芽峠を越えて敦賀に着き、気比神宮の大宮司:気比氏 治に迎えられその居城:金ヶ崎城に入城しました。
      金ヶ崎城
      源平合戦の時(治承4年(1180)頃)
      平通盛が木曽義仲との戦いのためにここに城を築いたのが最初
      と伝えられていますが諸説あり
      南北朝期の建武3年(1336)に後醍醐天皇の南朝側が越前に派兵
      その際に新田義貞が築いたともされています。

一方足利尊氏は、高師泰(こうのもろやす)を総大将として、兵六万余もって陸海より金ヶ崎城を攻撃、延元2年(1337)正月、 杣山城の瓜生保、里見時成等、兵五千余も金ヶ崎の急を救わんとしたが、迎撃に遭い、保、時成等戦死。籠城から半年後、尊良親王は新田義顕(新田義貞嫡子)以下将士三百余人と共に自刃。尊良親王享年27歳、新田義顕18歳であったと伝えられています。
恒良親王は、気比氏治が子息斎晴によって脱出されたが、後に捕らえられて京都に幽閉され、延元3年(1338)死去、享年15歳であったといわれます。

南北朝その後の社会
戦乱により公家や朝廷の政治力が衰え、政治の主導は完全に武家へ移ることになりました。
また、武家社会でも、それまで当たり前だった全国に分散した所領の支配が難しくなり、
分散した所領を売却・交換し、一箇所にまとめた所領の一円化傾向が顕著になってゆきます。
これに伴い、関東の狭い「苗字の地」から新恩の広い地方へ移り住む例が多くなってゆきます。
文化面では、連歌などの流行もあり、武士の間でも優雅な気風が生まれつつありました
政治的混乱が大きい時代でもあったので、佐々木高氏(道誉)などに代表されるバサラや二条河原落書など既存の勢力への反攻や批判的風潮が強まっていきます。

二つ目の金ヶ崎の戦い
戦国時代の元亀元年(1570年)に起きた、織田信長と朝倉義景との戦闘のひとつ
金ヶ崎の退き口(かねがさきののきくち)または金ヶ崎崩れとも呼ばれ
戦国史上有名な織田信長の撤退戦です。

近代の金ヶ崎
1907年頃、金ヶ崎宮では「花換えまつり」が行われるようになりました。当時は、現在のように好きな人に愛を告げる機会などありませんでしたが、このお祭りの時だけは「花換えましょう」と互いに呼びかけ合い、好きな相手に桜の小枝を渡すことで愛を告げることができました。この催しは今日まで続き、金ヶ崎宮は「恋の宮」として知られ、人気を博しています。
                                     (wikipedia・現地案内板 抜粋編集)
一の鳥居
鳥居扁額「金嵜宮」
拝殿
拝殿内部、扁額「金崎宮」