えいげんじ ルート ----
永源寺-新緑
地  域 25zc:日野東部/北東NW 概要 臨済宗大本山永源寺。康安元年(1361)、近江の守護職佐々木六角氏頼が、この地に伽藍を建て、寂室禅師(正燈国師)を請して開山となし、瑞石山永源寺と号しています。当時、山中には数多の坊・末庵を有する大寺院でしたが、応仁の頃、京都五山の名僧知識がこの地に難を避け、修行されたと伝えられています。以降、度重なる兵火に、往時の面影もなく衰退しましたが、寛永年間に再興なり、現在に至ります。何よりもまず、モミジの永源寺の名で広く知られます。鈴鹿の峰に源を発する愛知川が崖下を流れ、五月の新緑に山は萌え、秋の紅葉に山はさらに燃え、名勝の名をほしいままにしています。また、方丈(本堂)は、葭葺(よしぶき)の大屋根では国内屈指の建物とも言われています。また、政所茶の産地でもあり、独特の風味のあるこんにゃくも通人を引き付けます。
Mapion 滋賀県東近江市永源寺
標  高 240m/220m=20m
距  離 約 1.0km
体力度 Θ
山行日 2006.05.04、(雨)
形  態 日帰り、2名
時  間 所要--/歩行--
アクセス 自家用車、00:50
備  考 --
「臨済宗大本山永源禅寺」と彫られた
石柱を右に見て境内に入ってゆきます

この寺院は、皇室の離宮や
台蜜の寺院を改めたものや
家運を祈る道場でもなく
はじめから修行者のための
修業道場として開かれたとか

そのためでしょうか
政治権力などとは無縁のこの寺には
土塀などは見当たりません
境内に入ると
急坂が出迎えてくれます
この坂は
羅漢坂と呼ばれています
5月、爽やかな風が頬をつたいます
鈴鹿の峰々は、厚い雲に覆われていたのですが
平野部は青空、そよ風に引き寄せられるように
新緑を求めて永源寺にやってまいりました
これを機に、辛草所蔵の書籍を引っ張り出し
改めて、永源寺を見つめなおしてみました
永源寺の堂宇がある所は
この川の左上
勾配から察するところ
急傾斜地にあるように
感じ取れます
崖下を流れる川は愛知川
創建当時
音無川あるいは
雷渓とも呼ばれたそうです
ちなみに寺の裏山は
飯高山と呼ばれます
急峻な崖を切り取り参道が高度を上げてゆきます
その崖に沢山の石造(羅漢像)が鎮座しています
永源寺には山中に彦根藩
四代藩主・井伊直興(なおおき)の墓所があります
享保10年(1725)、井伊家に
「奉加願」が出されています
  (淡交社:古寺巡礼/永源寺)

このことからも、深い関係に
あったことが伺い知れます

上の写真は芭蕉の門人で
「蕉門十哲」の一人
五老井許六(ごろうせいきょりく)
(本名:森川許六)の流れを汲む
五老井八世と呼ばれる
※雄(しょうゆう)の作の句碑です
「白雲に迄も染め入る紅葉かな」
        (永源寺/表示板)
(※宀+公+木)これは松の古字
閑話
井伊直興は元禄10〜13年(1697〜1700)と
正徳元年〜4年(1711〜1714)の間に
二度、大老職についています
(二回目は再任、このとき、直興は直該
(なおもり)と改名)
この時代に起きた大きな事件は、元禄15年(1703年)に
赤穂四十七士の吉良邸討ち入りの事件(忠臣蔵)が発生
当時の大老職は空席でした、ちなみに
幕府側当事者の一人である柳沢吉安(大和郡山藩初代)は
宝永3年〜6年(1706〜1709年)の間、在任しています
新緑に包まれる総門
井伊家廟所は
左の山中にあります
石段を登りきった所に
しょう雄の句碑があります
総門です、山門ともいわれます

寺院は
山林にあるのを理想として
山号を有していたので
山門ともいわれるようなりました
豆知識
「山号」は寺院の名に冠する称号で
前出の通りですが、滋賀県内で

山名とおなじ名がつけられた寺院は
次の四例に過ぎないとされています
@観音寺山(別名:繖山):観音正寺
A松尾寺山:松尾寺
B東光寺山(別名:白鹿背山):東光寺
C仲仙寺山(ちゅうせんじ):仲仙寺

      (サンライズ出版:近江山の文化史)

※山の概要は「滋賀の山」に掲載
総門と三門の
中間点付近からの愛知川
三門にいたる参道
三門前の新緑
三門(山門)
三門には標識があげられ
「 寛政7年(1795)、時の住職が
山門がないのを嘆かれ、建立を発願され、彦根城主に図り、四方に浄財を化縁(げえん、かえんとも:経化を受けるべき民衆側の機縁)して着工、7年の歳月を費やし完工しました
楼上に釈迦牟尼佛・文殊菩薩・普賢菩薩・十六羅漢像を安置
・・・・」
とあります   抜粋編集
方丈(本堂)
本山古例の法要が行われる所で
国内屈指の葭葺屋根です
山門と同様、井伊家に図り
各地に勧進して立てられました

※葭葺(よしぶき)は
いわゆる草葺の一つで場所柄
琵琶湖特産のヨシ(アシともいう)の
茎で葺かれたものです
同種に芒(ススキ)を用いた茅葺や
麦藁をもちいた藁葺きもありますが
ヨシを用いるのが最高といわれます
鐘楼
方丈の脇に立ちます
鐘楼はいわゆる鐘撞きのお堂です
人の煩悩を清める鐘だというのに
先の大戦で梵鐘は供出され
現在のは昭和23年の鋳造だとか
創建以来
幾多の戦火に見舞われたでしょうが
近代においても
戦火にかかわりがあった証拠
人間の業の深さはとめどなく
はかりしれません・・・・
なげかわしいことです
鐘楼の腰部分から方丈の
東側にある堂宇を見つめました
正面は禅堂、左の屋根は法堂です

ちなみに鐘楼の腰がスカートのように
足元が広がっている腰の造りを
「袴腰」と称します
堂宇をつなぐ廻廊
左は法堂、右は禅堂
奥の含空院・標月邸などへと
石畳は続いています
瑞石(ずいせき)
永源寺は瑞石山永源寺と号し
山号の由来につながる石が
方丈の東隅に置かれています
その側には芭蕉の句碑があり
「こんにゃくの
   さしみもすこし(すごし)
      梅の花」 とあります
余談
芭蕉は大津の幻住庵に隠居を構えていました。庵の名前は、芭蕉が門人の膳所藩士菅沼曲水
(すがぬまきょくすい)の叔父、幻住(げんじゅう)老人の住み捨てた庵を修理して住んだところから付けられた説
もう一説には
開山の寂室禅師の中国の師である中峰明本和尚のゆかりの地よりとったとも伝えられています。そのゆかりの名とは、中峰和尚が住んでいた庵で、「斬江省の天目山・幻住庵」だそうです
       (淡交社:古寺巡礼/永源寺)
永源寺と芭蕉の意外な接点です
禅堂の入口の一つです、結界がされています
標月(ひょうげつ)の額
書院である標月亭に掛けられています
普段は、仏縁がなければ入れないのですが
本日は、寂室禅師生誕の法要のため
室内に入れていただけましたので
額をカメラにおさめてきました
曲がっているのは、辛草のへそ曲がり癖が
カメラに乗り移ったかも・・・・
標月亭の縁から庭をながめました
(ガラス障子あり)

苔むした庭と新緑
とても目に優しい情景でした
奥の建物は、含空院です
閑話
永源寺は、近江の守護職佐々木六角判官氏頼が、豊浦(安土町)の桑実寺に寄寓していた寂室禅師を懇請して、領内の風光明媚な愛知川の上流に、土地を寄進して創設されました。
佐々木氏頼は近江源氏の出で、早くから禅門に帰依し、出家して法名を崇永、道号を雪江居士と称しました。永源寺の寺号は、この崇永の「永」と、源氏の「源」よりつけられたものとされています。

また、開山の寂室禅師には、昭和3年(1928)に「正燈国師」の号を賜っておられます
          (淡交社:古寺巡礼/永源寺)
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