歩ッ歩ッ歩:山もゆる、一歩一歩の山あるき
こうざんじょうえいじ ルート 常栄寺(13:10/14:10)
香山常栄寺
地  域 35:山口/南東C 概要 常栄寺は、宗派:臨済宗東福寺派、山号:香山、本尊:千手千眼観自在菩薩。庭園は国の指定名勝。毛利元就が、息子・毛利隆元の菩提を弔うため、広島県安芸高田市に創建されました。関ヶ原の戦い後、毛利氏が長州藩に移封に伴い、山口にあった国清寺を接収し常栄寺としました。文久3年(1863)、長州藩の行政中心地を、萩から山口に移転した際に、萩から洞春寺を常栄寺の地に引寺。常栄寺は、現在地にあった明寿寺と合寺し現在に至ります。雪舟が造営した庭園は、枯山水を用いた池泉回遊式庭園で、寺に面する南側以外の三方を林地で囲んだ小谷地に築造され、前に心字池、東北には枯滝が設けられています。また、立石の手法も独特のもので、室町時代の庭園の姿を今日に遺しています。また、江戸時代に雲谷等益が描いた「絹本墨画淡彩雪舟等楊像」が、山口県の有形文化財に指定されています。
Mapion 山口県山口市宮野下
標  高 126m/64m=62m
距  離 約―km、斜度:max―゜
体力度 ―P、☆
山行日 2011.04.21、(晴)
形  態 前後泊、3名
時  間 所要01:00、歩行00:40
アクセス 自家用車、09:00
備  考 特に難所なし
現在地は、元は大内氏が大内政弘別邸跡に創建した妙喜寺に由来しています。大内政弘は、当時山口に滞在していた雪舟等楊に対して庭園の造営を依頼し、雪舟は寺の北側の後庭を造営したと伝えられています。これが後世に知られる「雪舟庭」です。その後、大内氏が没落すると、毛利氏はここを山口出身であった尾崎局の菩提寺とし、寺名も妙寿寺と改名しました。更に、常栄寺の移転によって、再度改名することになりましたが、この間、庭園はそのまま維持され続けました。
 

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境内案内図(現地標示板)

雪舟像、1420-1506

地蔵堂(左側)と前庭:円月庭
雪舟(せっしゅう)は、室町時代に活動した水墨画家・禅僧。「雪舟」は号で、諱は「等楊(とうよう)」と称しました。備中に生まれ、京都相国寺で修行した後、大内氏の庇護のもと周防に移ります。その後、遣明船に同乗して中国(明)に渡り、李在より中国の画法を学びました。中国画の、直模から脱した日本独自の水墨画風を確立し、後の日本画壇へ与えた影響は大きいとされています。
「涙で描いた鼠」の逸話が知られています(後年の創作の説有)。        (wikipedia:抜粋編集)

勅使門前から総門

勅使門 詳細はこちらから

勅使門前から庫裏

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書院玄関

鐘楼門を抜け左側に本堂を見上げる

塀越しの本堂

本堂表縁前の庭:南溟庭(なんめいてい)左側

本堂表縁前の庭:南溟庭(なんめいてい)中央

本堂表縁前の庭:南溟庭(なんめいてい)右側

本堂縁扁額「金毛窟」

本堂方丈の間

雪舟庭パノラマ :本堂縁中央

雪舟庭パノラマ:本堂縁西側 

本堂背面園と雪舟庭

本堂縁西側からの庭園

西側からの庭園

北側石組み望遠

聴松軒

聴松軒からの庭園

筆塚、妙喜寺殿(大内政弘公母君)墓

散策路

散策路

散策路

奥之院:毘沙門堂

毘沙門天立像

毘沙門堂扁額「毘沙門尊天」

薬師如来堂

弘法大師堂
   
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