びっちゅうたかまつじょうし | ルート | P(12:20)〜水攻め堤跡(12:30/12:40) 高松城跡(12:50/13:00)〜P(13:00) |
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備中高松城跡 | |||
地 域 | 33:総社東部/南東SW | 概要 高松城は戦国時代(築城時期不明)に存在、讃岐高松城と区別して備中高松城とも呼ばれます。城形式は梯郭式平城で、石垣は築かれず土塁により築城。城の周囲は低湿地帯で、これらが天然の堀を形成していました。松山城主・三村氏の命により、備中守護代で三村氏の有力家臣でもあった石川氏が築いた城。天正3年(1575)の備中兵乱により毛利氏に滅ぼされた後は、清水宗治が城主となりました。天正10年(1582)、織田軍の羽柴秀吉が中国攻めの先鋒をまかされ、軍師・黒田孝高の献策により、城を堰堤で囲み水没させるという城攻めが開始され、12日間で工事が完成し城は水没。しかし、本能寺の変により、急きょ和議を成功させ「中国大返し」を行い、秀吉は天下人への道を進むことになります。その後、高松城は宇喜多領となり、徳川幕府の一国一城令により廃城。城跡と堰堤跡は「高松城跡附水攻築堤跡」の名称で国の史跡に指定。 | |
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岡山県岡山市北区 | ||
標 高 | 06m/05m=01m | ||
距 離 | 約―km、斜度:max―゜ | ||
体力度 | ―P、Θ | ||
山行日 | 2014.04.06、(晴) | ||
形 態 | 後泊、2名 | ||
時 間 | 所要00:40/歩行00:20 | ||
アクセス | 自家用車、04:30 | ||
備 考 | 特に問題なし |