歩ッ歩ッ歩:山もゆる、一歩一歩の山あるき
たまつしまじんじゃ ルート 玉津島神社(15:25/14:45)
玉津島神社
地  域 30n:和歌山/南西E 概要 玉津島神社は、主祭神:稚日女尊・息長足姫尊・衣通姫尊の3柱に明光浦霊(あかのうらのみたま)を配祀、社格:国史見在社・旧村社、創建:不詳、本殿の形式:春日造。古来より玉津島明神と称され、和歌の神として住吉明神、北野天満宮と並ぶ和歌3神の1柱として尊崇を受けています(近世以降は北野社に代わって柿本人麿)。神亀元年(724)2月に即位した23歳の聖武天皇は、同年10月に和歌の浦に行幸してその景観に感動、この地の風致を守るため守戸を置き、玉津嶋と明光浦の霊を祀ることを命じた詔を発し、これが玉津嶋の初見と伝わります。この時同行した奈良時代の歌人:山部赤人の詠んだ歌『若の浦に、潮満ち来れば潟を無み、葦辺をさして、鶴(たづ)鳴き渡る』は有名。当時は、島山があたかも玉のように海中に点在していたと思われ、現在も当神社とその一帯は、和歌の浦の歴史的景観の核とも言えます。
Mapion 和歌山県和歌山市
標  高 05m/03m=02m
距  離 約―km、斜度:max―゜
体力度 ―P、Θ
山行日 2019.06.17、(晴)
形  態 後泊:3名
時  間 所要00:20/歩行00:10
アクセス 自家用車、03:30
備  考 特に支障なし
絵馬吊
『 奥嶋 荒磯の玉藻 潮干満ち い隠りゆかば 思ほえむかも 』 巻6-918
(沖の島の荒磯にはえる藻が、潮が満ちてきて隠れてしまったら、恋しく思われるでしょう)

『 若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴鳴き渡る 』 巻6-919
(和歌の浦に潮が満ちてくると千潟がなくなるので、葦のほとりをめざして鶴が鳴き渡ってゆく)
万葉歌碑『反歌(短歌)二首』
本全国の万葉故事に揮毫された万葉歌碑一四一のうち、九十八・九十九番目の歌碑
青石は、犬養先生自ら選ばれたもの。

玉津島神社拝殿横 平成六年十一月十九日 揮毫者 犬養孝・国文学者
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「万葉歌碑」案内板、※案内板は風化があり、判読できかねます
神亀元年甲子冬十月の五日、紀伊の国に幸しし時に
山部宿禰赤人の作る歌一首

『 やすみしし わご大王の 常宮と 仕へまつれる 雑賀野ゆ
  背向に見ゆる 沖つ島 清き渚に 風吹けば 白波騒ぎ
  潮干れば 玉藻刈りつつ 神代より 然ぞ貴き 玉津島山 』 巻6-917
拝殿
手水場
手水舎
『藤原公任(ふじわらきんとう)のうた詩書(1009)、に続く藤原宗忠の「中右記」、藤原頼道の旅行記、貝原益軒(1687、遊覧)の「南遊記(1713)」等を引用し、江戸時代に崎山楠左衛門父子の「和歌名所記」や「和歌の浦状」を江戸の仙鶴堂が、版木にしたものを寺小屋の手本として広く書き写されたものものです。』   (万葉の玉津島とその界隈:玉津島神社から)
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拝殿前から鳥居見返り
「和歌浦状」案内板
天正13年(1585)に紀州を平定した豊臣秀吉も、早々に玉津嶋に詣でています。この後、紀州に入部した浅野幸長により、社殿の再興が図られ、徳川頼宣により本殿などの本格的な整備がなされました。寛文4年(1664)には、春秋2期の祭祀が復活しています。現在、境内には頼宣が承応4年(1655年)に寄進した灯篭が残されています。近世に整備された玉津嶋神社は、和歌の浦の名所として巡礼をはじめ大勢の人々が詣でるところとなりました。
万葉歌碑『山部赤人の作る歌一首(長歌)』
根上松
「由緒書」案内板
鳥居
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山悠遊-和歌山北部