探訪記-滋賀北鈴鹿
歩ッ歩ッ歩:山もゆる、一歩一歩の山あるき
だいじさん-しょうりんじ 概要 臨済宗妙心寺派少林寺、山号:大慈山。本尊:木造観世音菩薩(重文:平安時代後期の作)。開基:聖徳太子、創建は7世紀ごろ、笹尾寺として開創。宗派:法相宗(※1)から天台宗に転宗。織田氏の比叡山焼き討ちに伴い、ほとんどの堂宇を消失。幸い本尊は焼失を免れ、仮の堂宇に安置。正保3年(1646)、中興:括山(せっさん)大和尚(江国寺※2)第二世、大慈山少林寺に改称。この時、臨済宗に改宗。裏山山中の墓地には、大坂の陣で名をはせた真田信繁(幸村)の娘とされる人物の墓石があります。
大慈山-少林寺
地  域 25znw:
彦根東部/南西S
Mapion 滋賀県彦根市笹尾町
山行日 2015.11.21、(晴)
◎ 真田信繁(幸村)の娘の墓
少林寺の歴代住職や信徒の墓が並ぶところに
彦根藩士に嫁いだ真田信繁(幸村)の娘(※3)のもの、と伝わる墓石があります
墓石には4人の戒名が記されていて
右から二列目の「九品院殿智海妙恵大姉」とあるのが、真田信繁の娘とされる女性の戒名です
大坂冬の陣の前に彦根に嫁ぎ、大坂城落城の六年後に亡くなった女性の墓碑とされています
名将:真田信繁(幸村)と、彦根の山村がこんな形で結ばれているのに、深い感慨を覚えます

幸村の娘が嫁いだのは、青木五郎兵衛という彦根藩士
青木氏はもと信州上田城主真田昌幸の家臣でしたが
武田氏滅亡後、徳川家康の命で井伊直政の軍団に配属されています
青木氏はその後、関ヶ原の戦いや大坂の陣にも従軍しています

青木氏の菩提寺は、彦根本町江国寺であり
過去帳に、「幸村の娘」と記載されているそうです
しかし、青木氏の菩提寺である江国寺ではなく
江国寺の末寺である笹尾の少林寺に、青木氏妻の戒名が書かれた墓石があります

これは、井伊家並びに徳川家を憚っての事(※4)でしょうか
歴代住職の墓は、山を背景に開けた山間を見下ろすように設けられてあるのですが
真田信繁(幸村)の娘の墓は、歴代住職の墓石と向き合って置かれています
墓地としては、最良の場所にあるのですが、山側に向かって設置されています
山に向かって立てられたのは、何か理由(※4)があるのでしょうか

※3:真田信繁(幸村)の子供は、4男7女説(wikipedia)が有力なようですが
   この中に彦根藩士に嫁いだ娘の記録がありませんので
   8女ないしはほかに女子(がいたかも)が、彦根藩士に嫁いできたのではないかと言われます
※4:思いますに、大坂夏の陣において、家康を追い詰めた真田信繁(幸村)の名は
   徳川支配下の江戸時代、禁句とされ、世をはばかったゆえのものと推察しますが
   真偽はいかがなものなのでしょうか・・・・
   真田信繁の遺族は、後に許され宮城に末裔がおられます
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幸村の娘の墓石
地区の入口から彦根東部山地を見上げる
石柱からの参道俯瞰
参道前からの彦根東部山地
イブキ
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イワス
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男鬼山
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向山(芹川北)
  ↓
男鬼峠
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イブキ
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地区入口からの野田山
イワス
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石仏塚
野田山本峰
野田山中峰
   ↓
歴代住職墓地
階段参道
境内、正面は収蔵庫
石柱側面「少林禅寺」
真田信繁(幸村)の娘墓石
戒名が4列、右から二列目がそれ
昭和になり無住が続き、檀家も少なく寺院の維持ができなくなり、近在の僧侶が兼務されています
また、建物の老朽化に伴いやむなく本堂は解体、国の補助で収蔵庫が立てられ
本尊を正面に、両脇には広目天と多聞天が固めます
本尊は秘仏で、33年ごとに御開帳されます

逸話:ある時、観世音菩薩を盗んだ人があり、観世音菩薩を持って逃げようとしたところ、途中で観音様が石のように重くなり、少しも歩くことができず しかたなくその場に置いて去ったという言い伝えがあります

※1:資料はありませんが、聖徳太子創建や、近在に興福寺の影響が大きいことから判断しました
※2:江国寺は彦根市本町にある臨済宗妙心寺派の寺院
石柱正面「国宝 本尊観世音菩薩」、※旧国宝
五輪塔
野田山
 ↓
墓地からの野田山山容
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