櫻之丸塀・南門・天守
南門正面額縁・天守
南門背面額縁
南門背面・櫻之丸隅櫓
ぐじょうはちまんじょう ルート 郡上八幡城((10:40/11:40)
郡上八幡城
地  域 21m:郡上八幡/北東NW 概要 郡上八幡城は、城郭構造:平山城、天守構造:独立式層塔型4層5階(昭和8年-1933、木造模擬天守復元)、築城主:遠藤盛数、築城年:永禄2年(1559)、主な城主:遠藤氏・稲葉氏・井上氏・金森氏・青山氏、廃城年:明治2年(1869)、遺構:曲輪・石垣。戦国時代末期、郡上一円は篠脇城を居城とする東氏(とうし)によって支配されていました。その後、東氏は郡上八幡の町を流れる吉田川の対岸にある赤谷山に赤谷山城を構えましたが、永禄2年(1559)、牛首山(後の八幡山)の上に砦を築いた遠藤盛数により滅ぼされました。その時、赤谷山城を攻撃した時に砦を築いたのが郡上八幡城の起源です。現在の天守は、大垣城を参考に昭和8年(1933)に木造4層の模擬天守として建設され、隅櫓2基と築地塀も整備(模擬天守としては全国的にも珍しい木造で、本天守は現存する木造再建城としては日本最古となる)されました。
Mapion 岐阜県郡上市八幡町
標  高 332m/325m=07m
距  離
体力度 ―、☆
山行日 2023.10.12、(晴)
形  態 後泊、3名
時  間 所要01:00/歩行00:20
アクセス 自家用車、02:00
備  考 狭い山岳道路
パンフレット-3/5
パンフレット-2/5
パンフレット-1/5
櫻之丸塀・南門
櫻之丸隅櫓・およし観音を祀るお堂
「凌霜隊(りょうそうたい)略記」石碑、※写真クリックで拡大
山麓:吉田川からの天守望遠
「凌霜隊(りょうそうたい)の碑」案内板、※写真クリックで拡大
松之丸からの天守北側
松之丸隅櫓:北側
松之丸隅櫓:南側
坂虎口門背面
天守最上階からの櫻之丸
天守台天井に掲げられている縄張り図
西側展望:「高鷲から白川郷方面」
北側展望
北側展望
東側展望「堀越峠から和良・下呂方面」
南側展望:「激戦の地赤谷山」
天守玄関
天守玄関
「郡上八幡城 沿革」案内板、※写真クリックで拡大
櫻之丸隅櫓・天守
天守見上げ
およし塚句碑『城山の 露と消えゆく 人柱』
「およし塚」案内板、※写真クリックで拡大
力石
松之丸櫓見上げ
松之丸石垣
天守見上げ
「力石」案内板、※写真クリックで拡大
松之丸石垣下からの櫻之丸隅櫓
松之丸石垣
遠藤氏の入城後、遠藤盛数の長男:慶隆が城主となりましたが、本能寺の変後、羽柴秀吉と対立する織田信孝の傘下に属していたため追放されました。慶隆追放後、天正16年(1588)に稲葉貞通が城主となり、郡上八幡城の大改修を行いました。その内容は、八幡山の麓に新たに濠を掘り、本丸に天守台を設け、塁を高くして、塀を巡らし、武庫と糧庫を増築し、鍛冶屋洞に面して大きな井戸を掘り、二の丸を増築して居館としました。この時、現在見られる近世城郭としての郡上八幡城の基礎が築かれました。その後、関ヶ原の戦いの功によって再び慶隆が城主となり、城の改修を行いました。5代藩主:常久まで遠藤氏が城主となり、以後井上氏2代、金森氏2代、青山氏7代と城主が変遷。廃藩置県まで郡上藩の藩庁でした。青山幸宜が藩主の際に明治維新を迎え、廃藩置県によって廃城となり、廃城の翌年の明治3年(1870)に、石垣だけを残し、取り壊されました。
城跡は、岐阜県指定史跡、復元天守は続日本100名城第141番に選定。
「山内一豊の妻」の出身地、「人柱およし」伝説、「赤髭作兵衛の力石」伝説、凌霜隊(りょうそうたい)顕彰碑などの話題があります
パンフレット-5/5
パンフレット-3/5
「人柱『およし』について」案内板、※写真クリックで拡大
櫻之丸隅櫓・塀
松之丸塀
西側展望:「大火から復興した城下町の町並」
西側展望:「大火から復興した城下町の町並」
西側展望:「高鷲から白川郷方面」
東側展望「明宝から飛騨高山方面」
東側展望「明宝から飛騨高山方面」
東側展望「堀越峠から和良・下呂方面」
南側展望:「激戦の地赤谷山」
南側展望:「吉田川と古い街並み」
南側:「吉田川と古い街並み」
天守最上階
天守:4層5階
櫻之丸石垣下からの隅櫓・天守
「八幡城城 沿革」案内板、※写真クリックで拡大
「郡上八幡城案内図」案内板、※写真クリックで拡大
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