水戸天狗党始末
水戸天狗党は、江戸末期(天保年間)、水戸藩主徳川斉昭の藩制改革に伴い,下級藩士を主体に結成された尊王攘夷の急進派。保守門閥派の諸生党と激しく対立。1864年、攘夷延期を不満として筑波山に挙兵、武田耕雲斎・藤田小四郎を主導者とする一派は、禁裏御守衛総督:一橋慶喜を通じて、朝廷へ尊皇攘夷の志を訴えることを決意し、上洛の途に就きましたが、抵抗が激しく、志が遂げられないと悟り、加賀藩(越前・敦賀)にて降伏。武田以下数百名は、敦賀で斬刑に処せられました。

水戸を元治元年(1864)11月1日に発した一党は、上野:下仁田の戦い、信濃:和田峠の戦い、美濃では大垣藩と安政の大獄で遺恨を持つ彦根藩が進軍を阻止、やむなく北上し越前に入る、北国街道を西に進み、木ノ芽峠を越え、12月11日に新保宿で陣を張る。ここでは、圧倒的な幕府軍が待ち構えていた。追討軍の総指揮官が水戸藩本家筋の一橋慶喜ということと、加賀藩の武士道にのっとった対応に心動かされ、戦闘行為をはばかり12月11日、加賀藩に投降し武装解除することになり、一連の争乱は鎮圧されました。

投降後の処遇は、加賀藩や越前藩の対応から一変し、幕府の下した処分は過酷を極めました。この時、捕えられて天狗党員約828名(最大時:約1400名が加担)のうち、死罪:352名、遠島:157名、追放:187名、水戸渡し:130名、永厳寺預け:11名(15歳以下の少年たちの助命嘆願があり、後に許されて水戸に帰藩した)。安政の大獄でも死者6名に過ぎなかったのですが、この天狗党騒乱の処刑は近世未曾有の惨劇となりました。

その後も明治維新に至るまで水戸藩政の主権をめぐって保守派と凄惨な争いが続きました。そのため、水戸藩では優秀な人材が失われ、維新政府には、高官につけなかったと言われています。
                             
(wikipedia、抜粋編集)
探訪記-福井越前
歩ッ歩ッ歩:山もゆる、一歩一歩の山あるき
六地蔵
山門右背面
しょうさいさんようごんじ 概要 永厳寺は、宗派:曹洞宗、創建:応永20年(1413)、本尊:千手観音菩薩。1570年、織田信長による朝倉侵攻の金ヶ崎城攻めにより、一帯は荒土と化し、後、敦賀代官「打它宗貞」により、畜馬の牧場として使用されていた土地を買い取り、中興開基され、慶長12年(1607)、他所からこの地に移されされました。昭和20年(1945)7月12日の米軍大空襲により、山門・鐘楼を残し全ての堂宇が消失。鐘楼の梵鐘は、寛文5年の銘があり県の文化財に指定。昭和43年に堂宇が再建。若狭三十三観音霊場第一番札所。
勝載山永厳寺
地  域 18s:敦賀/北東N
Mapion 福井県敦賀市
山行日 2015.05.27、(晴)
稲荷社
山門右正面
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鐘楼、右奥にコンクリート造の本堂があります、国道8号から入る車参道も・・・・
観音堂向拝
観音堂
鐘楼見上げ
階段下の石仏
延命地蔵尊
山門背面遠景
山門背面
山門背面、こんな光景ははじめて・・・・
禁牌石(きんぱいせき) 「不許葷酒入山門」
山門全景
隧道からの山門
参道は国道8号を潜る
参道、背後の山は天筒山
鐘楼:釣鐘のみ戦前のもの、奥は観音堂
「石書経」石塔、左は歴代住職の石塔
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