ゆうこくざんぜんしょうじ ルート 熊谷山全昌寺(09:00/09:40)
熊谷山全昌寺
地  域 17k:大聖寺/北西SE 概要 全昌寺は、宗派:曹洞宗、創建:天正4年(1576)、開山:輝雲麟和尚、本尊:釈迦牟尼仏。大聖寺の山ノ下寺院群にある寺院で、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で、大聖寺城主の山口宗永(むねなが)の菩提寺です。五百羅漢と松尾芭蕉ゆかりのお寺として知られています。羅漢堂には、極彩色の五百羅漢像と釈迦三尊像・四天王像・十大弟子像など、517体の仏像が安置されています。五百羅漢像は、顔も衣装もポーズも個性的で、それぞれが語りかけてくるようで、時間が経つのを忘れてしまいます。俳人・松尾芭蕉と弟子の曽良(そら)が奥の細道の行脚中に一泊したお寺でもあり、本堂には芭蕉木像が展示され、境内には芭蕉塚や句碑が建てられています。一帯は山ノ下寺院群と呼ばれる寺町で、「赤瓦」と称される赤茶色の屋根が特徴的です。境内にはツツジ、秋海棠、萩などが季節に応じて咲き、季節に応じて楽しめます。
Mapion 石川県加賀市大聖寺神明
標  高 05m/04m=01m
距  離
体力度 ―、Θ
山行日 2023.04.18、(曇/雨)
形  態 後泊、3名
時  間 所要00:40/歩行00:10
アクセス 自家用車、02:00(高速)
備  考 特に問題なし
パンフレット(中)、クリックで拡大
山門背面額縁
山門背面
本堂向拝からの山門背面
羅漢堂前からの山門
六地蔵石憧
羅漢像
羅漢像
羅漢像
羅漢堂扁額『羅漢堂』
「全昌寺と柳の句」案内碑、クリックで拡大
「全昌寺、芭蕉忌における深田久弥(九山)作・全句」案内碑、クリックで拡大
九山(深田久弥)句碑
芭蕉句碑『庭掃きて 出でばや寺に 散る柳』
句碑
山門正面額縁
禁牌石(きんぱいせき、不許葷酒入山門)
門前
パンフレット(表/裏)、クリックで拡大
「達磨大師」案内板、クリックで拡大
達磨像
達磨図掛け軸
達磨図衝立
本堂内部扁額『全昌寺』
本堂向拝扁額『熊谷峰』
本堂向拝
本堂
左・本堂、右・書院玄関
境内
手水鉢
手水鉢
「五百羅漢像」案内板、クリックで拡大
「羅漢堂」案内板、クリックで拡大
灯籠
「はせを塚と曽良の句碑」案内碑、クリックで拡大
「大聖持の城外、全昌寺と云寺に泊る。猶(なお)かゝ(加賀)の地也。曾良も前の夜此寺に泊て、 終宵(よもすから)秋風聞やうらの山と残ス。一夜の隔(へたて)、千里におなし。我も秋風を聴て衆寮に臥。明ほのゝ空ちかう読経(どきょう)聞ゆるに、板鐘(しょうばん)鳴て食堂(じきどう)に入。けふは越前の国へと心早卒(そうそつ)にして、堂下(どうか)に下ルを、若き僧共紙硯をかゝへて、階(きさはし)のもとまて追来ル。折節(おりふし)庭中(ていちゅう)の柳散れは、庭掃て出はや寺に散柳 とりあへぬ一句草鞋なから書捨ツ。」(『奥の細道』)

芭蕉は山中温泉で宿泊した「泉屋」(泉屋に8泊し、主人・久米之助に俳句を指導)の縁で、全昌寺に宿泊することに(全昌寺は、泉屋の菩提寺、住職・月印は泉屋・久米之助の伯父)。曾良も前の晩この寺に泊まり、「終宵(よもすがら) 秋風聞や うらの山」の句を残し、芭蕉もい一宿一飯のお礼に、柳を掃いてから出発したいと「庭掃いて 出でばや寺に 散る柳」と詠んでいます
この禅寺で一夜を明かした後、今日は越前まで行こうと慌しくする芭蕉に、若い僧が硯や紙を持って駆け寄ってきて、句を詠んで欲しいと懇願します。禅寺に宿泊した場合、翌朝その礼に庭などを掃除してから出立するのが習わし。それをせずに旅立つ謝意を込め、芭蕉は即興で次の句を詠みます。
「奥の細道」案内碑
山門側面中景
山門側面
山門背面
山門左背面
通用門背面
通用門正面
「曹洞宗熊谷山全昌寺」案内碑、クリックで拡大
山門(薬医門)
庫裏・書院玄関
境内
六地蔵石憧
「六地蔵石憧」案内碑
地蔵菩薩像・六体
手水鉢
釈迦三尊・四天王・十大弟子像
釈迦三尊・四天王・十大弟子像
釈迦三尊・四天王・十大弟子像
曽良句碑『終夜(よもすがら) 秋風聞くや うらの山』
大聖寺城主:山口玄蕃頭宗永公の帰依を得て慶長3年(1598)、山代より現在地に移築された同城主の菩提寺です。しかし、慶長5年(1600)8月前田利長の大聖寺攻めに遭い、玄蕃一族は戦死しました。その為、寺の維持は困難となりましたが、慶長8年(1603)、大聖寺城代として金沢より派遣された津田遠江守重久の帰依により、仮香華院となりました。その後、江州曹澤寺の輝雲和尚が入寺し、この時寺格が与えられ、寺の地位が確立しました。
羅漢堂
寺号碑
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旅悠遊-石川加賀
歩ッ歩ッ歩:山もゆる、一歩一歩の山あるき