ごかやまがっしょうしゅうらく ルート 相倉合掌集落(12:20/13:30)〜白山宮〜処刑小屋
〜行徳寺〜岩瀬家〜菅沼合掌集落(15:30/16:30)
五箇山合掌集落
地  域 16w:下梨/南東SW 概要 五箇山は、赤尾谷・上梨谷・下梨谷・小谷・利賀谷の5つの谷からなるので「五箇谷間」となり、これが転じて「五箇山」の地名となりました。江戸時代、元禄3年(1690)から加賀藩の流刑地となり、流刑場所は庄川右岸の8ヶ所で、軽犯罪者は平小屋に収容され拘束の程度は緩かったが、重犯罪者は御縮小屋と呼ばれる小屋に監禁され、自由を奪われていました。流刑地である当地を流れる庄川に橋を掛けることが許されず、住民はブドウの蔓で作った大綱を張り、籠をそれに取り付けて「籠渡し」として行き来しました。気象が厳しい五箇山では、年貢を米で納めることができず、塗炭の苦しみを味わっていたそうです。この地域は有数の豪雪地帯で、そのような風土から傾斜の急な大きな屋根を持つ合掌造りの家屋が生まれました。相倉地区や菅沼地区には合掌造りの集落が残っており、国史跡、重要伝統的建造物群保存地区に選定。
Mapion 富山県南砺市見座
標  高 440m/394m=46m
距  離 約―km、斜度:max―゜
体力度 ―P、☆
山行日 2019.10.30、(曇後晴)
形  態 後泊:3名
時  間 所要04:10/歩行00:30
アクセス 自家用車、04:00
備  考 特に支障なし
歩ッ歩ッ歩:山もゆる、一歩一歩の山あるき
るけいごや ルート 流刑小屋(14:0014:10)
流刑小屋
地  域 16w:上梨/北西NE 概要 江戸時代、五箇山の地は加賀藩・前田家の領地でした。人もほとんど行き交うことも出来ないこの地は、やがて加賀藩の流刑地として利用されました。特に庄川の右岸一帯は山と川によって隔絶された場所であり、罪人が逃げ出すことがほぼ不可能であったことから、加賀藩は、庄川に橋を架けることを禁じ、人の行き来を極端に制限して流刑地としたのです。五箇山に初めて流人が送られてきたのは、寛文7年(1667)のことで、以降、幕末まで約150名の流刑者があったと記録されています。庄川右岸に位置する田向も、流刑地とされた7つの集落のうちの1つであり、かつて加賀藩が使用していた流刑小屋が現存しています。明和5年(1769)に起きた大火の後に造られ、明治以降は物置小屋として利用されていたといわれます。付近に駐車場はないため、対岸の観光駐車場を利用し、庄川に架かる橋を徒歩で渡って拝観します。
Mapion 富山県南砺市田向
標  高 305m/295m=10m
距  離 約―km、斜度:max―゜
体力度 ―P、Θ
山行日 2019.10.30、(曇後晴)
形  態 後泊:3名
時  間 所要00:10/歩行00:10
アクセス 自家用車、04:00
備  考 特に支障なし
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「流刑小屋」案内板
庄川下流
壁部分
流刑小屋の大きさは、間口2.7m、奥行3.6mで、約6畳の広さがあります。中は板敷きで、便所が付いています。戸口はありますが、流人の収容と釈放の時以外は鍵が掛けられ、食べ物の受け渡しは柱に開けられた穴から行うことになっています。この流刑小屋は、「お縮り小屋(おしまりごや)」と呼ばれ、かなり重罪の流人が入るところでした。通常の場合、流人は流刑となった集落内であればある程度の自由な活動は認められており、村人との交流もありました。しかし、このお縮り小屋に入れられる者は、この外に出ることは許されず、村人との接触も食事の受け渡しのみという厳しいものであったと伝わります。さらの重罪の者は、この小屋の中にしつらえられた檻の中に入れられ、全くの自由を奪われたとされています。
庄川上流
妻部分
六畳ほどの小さな小屋です
急傾斜地に建っています
標高差約10mの階段を上ります
山聲-TOP
山悠遊-富山五箇山